以前から噂されている《食べログ》のやらせ問題。
実際に業界内には、「良い評価を投稿するから月額5万円で契約してください」というような業者が横行しているようで、カカコム本体がリテールの飲食店から広告費をもらっているというケースがあるのかどうか定かではませんが、それについては、☆を操作するというようなことが目的事態で行われてはいないようです。
なぜ急にこうしたことを書いているかというと、わたしの場合は、20代から情報誌などの取材で数多くの都内各地の飲食店に行くことが多いのですが、最近のWEB系の広告媒体では、つまらぬ話ではあるのですが、「食べログ」の☆の数で取材先をチョイスするという”馬鹿な”ことが行われているのです。
あまりクライアントのことを悪くいうようなことはもちろんNGですが、ただそういう偽りの(真剣に投稿している人もいますが)情報に振り回されて情報を発信するプロはずの人たちが、実際に行ってみると『そうでもなかった』店について、おいしかった、どこそこがよかったなど、媚びたことを書かなくてはならないことがいやなのです、単純に。
以前、まあ90年代、2000年初頭の頃ではありますが、当時はよかった(て、年よりみたいですね)。
大手の雑誌編集者(そうでないところも?)皆、店やモノを取り上げる際には必ず覆面取材をして(名乗らず)二回目で取材交渉を行う、というのが通常のスタイルでした。
結果、同じお店に行って取材時も含めると二度三度と食事するという、まるで行きつけの店のようになってしまうのですが、編集者は皆、自分の足で見つけた「自慢の店」を外部スタッフに得意げに紹介していて、強気な態度で、店の一押しメニューすべての皿を注文していたものです。
そんな時代を知っているだけあって、なんだかネットの時代とは言えども、コストを抑えて素人情報に振り回されるわれわれクリエイター、取材者は何とも自分自身の価値が落ちたようにも感じられてなりません。
ネット情報が氾濫する時世を反映してか、最近では情報料として『1万円申し受けます』とか、ドン引きな、まったく人情もメディアに対する愛着もないような金銭を要求してくる飲食店も現れてきました。これは、われわれの責任でもあるかとは思いますが、なんだかとても世知辛い世の中です。
だからなんでしょうかね。今日の話はまとまりませんが、ネット時代の情報発信を考えるのと同時に、口コミサイトがどうのこうのだけではなくて、ネット上の匿名性自体にも疑問を感じるものです。
だから無責任に批判したり、表現が極端になっても自分の責任を感じないような鈍い感性の人間が育てられていくのではないかと・・・。現在、ネットでは、facebookや、一定のソーシャル以外ではほぼすべて匿名で発進できるようになっています(その最たるものは掲示板、2chとかですが)。
私は以前から、勝間和代さんと同じ主張で、ネットのすべての情報発信は「匿名ではなく、実名で」されるべきだと考えています。実際には個人情報の悪用などネガティブのことも考えられなくはありませんが、それでも自ら主張を問うようなシチュエーションでは本名で発信されるべきだと思います。
あまりにも社会問題化するような事案があればもちろん考え直さなくてはなりませんが、どうして人は、匿名で情報を発信したがるのでしょうか。ある意味、これは人間の二面性を顕著に表しているのかもしれません。表向きの顔と匿名で通じるネット上の顔、人は皆、自分を守るために(どちらも自己発揮したい)使い分けないといけないのかもしれません。
かくいう私も日頃書けない本音の部分をときに食べログに投稿してみたくなります。しかしその内容があまりにもリアルで店に与える影響が大きいせいか、昨夜は、即削除依頼が来ちゃいましたね。まあ、そうでしょう。我ながら、ちょっと反省しました。あくまで主観であって自分にとって気になることと、他の人が気になることとは違いますからね(^_^;)
まあ、カカクコムさんも必要以上に裁判などに巻き込まれたくないでしょうから、ほどほどに、というお気持ちお察します。
というわけで行き過ぎた情報発信には気を付けなければなりませんが、しかし、本気発信ならぜひ匿名ではなく実名でね!と思います。2chの人たちも、まともな人で自分に自信があるならすべて本名で発信勝負すべきです(笑)。皆がそうするとこの世の中は「正直者がバカを見るではなく」、正直ものが得をする?いや、少なくともフェアな世界になると思いますね。
まあ、本気ならネットの世界ではなくて、リアルで勝負すべきなのでしょうけどね。
(正直、そこはなかなか受け皿がない)
リアルの世界では皆、人は忙しく生産性を生む情報しか聞きたがらないという人間の本性がありますからね。
とにかくこの世界を変えていくのは並のことではありませんが、やはりカカクコムのようなサイトや、きちんとした信憑性のあるビジネスをしていくならあくまで本名で投稿を!というのが私の持論であります。それだけは結論としてやっぱり思います。結果、人は自分の顔に責任を持ち、”本当のこと”しか書けなくなるのではないでしょうか。※ご意見あればお待ちしています。
日本の国難を憂える一市民です。 仕事は執筆業、撮影を生業にしています。 まともなことをまともにいえる(これは保守政権への奪還を目指すものです)日本にしていきたいですね。 マスコミによる国民コントロール、売国奴から日本を守りたい!その一心でブログを書き綴ります。夢のある未来を築いていきましょう!
2013年6月7日金曜日
2013年5月5日日曜日
「生きる力がわいてくる本」くじけそうなあなたへ 川村則行著
2013年のゴールデンウィークいかがお過ごしですか?
今年は意外にも東京で過ごす方が多いようにも感じます。人が東京に押し寄せているのでしょうか?
かくいう自分もその一人ですが、こういう時には普段なかなか思いを馳せることのできていない家族のことなどを考えてみたりするものです。
ズバリ、タイトルにもしました本の題名は、私の義理の兄にあたります精神内科医、川村則行の好著です。身内が言うのも何ですが、ここ何年もまともにおつきあいしていない間柄です。それでもここ数年は、本人の活躍は耳に入ることが多く(開業直後NHKでも取材されました)この広い世の中でどなたかのお役に立たれている事を嬉しく思う限りです。
そんな訳でつい先日、タイトルの書をアマゾンで購入してみました。
他にも著作は複数、他社出版社からも出版されていますが、アマゾンの本の中身を閲覧するでこちらに(PHP研究所発行「生きる力がわいてくる本」)決めました。
義兄の得意とするところの人間観察(まあ、精神内科医ですから当然ですが)が利いていて、これまで往診された患者さんの事例に沿って、「人はなぜくじけるのか」を紹介。人間のくじるける「心の法則」を解き明かしながら、「こんな時はどう考えればよいのか」(心が軽くなるか、幸せになれるのか)を川村独自の視点で紹介しています。
重ね重ね、身内が言うのもなんですが、40代半ば頃(今の私と同じ歳)に書かれたこの本は、円熟味を帯びて来ているように感じます。
実に様々な方の症例に合わせて、症状の根本原因を説き明かし、一刀両断すべきところは一刀両断し、一見冷たく感じられるかもしれませんが、その言葉の奥にあるものは人間への”愛”に他ならないと感じます。
また、具体的な症例も多岐に渡っており、どの方にもほとんどのケースが、「自分にもあてはまるのではないか」と感じられる事ではないかと思うのです。(誰しもが心の病にはかかる可能性はあるのです。)
詳細はこちらで書き記すよりもぜひ、一度ご一読頂ければと思うのですが、私自身、最近、自分に対して「正直にありたい」という気持ちを深めているところです。そして、なぜ、「人間はそのように考えるに至ったか」、という人間のバックボーンというものを改めて考える事の大切さを実感しているところです。
バックボーンを見つめ、新たな自分の人生を生きる切り口として、この本は非常に有効であると思われますので、ぜひ、義兄の辛口で切れ味鋭くも人間を真っ正直に見つめようとする学者魂に触れてみてください。
最後に、至ってプライベートな文脈ではありますが、私自身の姉に関する記述がありましたのでこちらを紹介したく思います。もう20数年になる二人の足跡ではありますが、社会に足場を固め、ふたり二人三脚で日々共に互いを助けとし、多くの方の方々に必要とされる人生を歩んでおられます事を心より、有難く、嬉しく思う次第です。
第4章 こんなときは、こう考えよう ーよくある悩みの処方箋ーより
「自分は自分らしく生きていないのではないかと思い始めたのは中学2年のころからで、(中略)しかしその後も、どうしても期待される人間像のように振舞おうとしたのです。
そういう無理をして相手の要求に応じるということをやっているのがくだらないと思えるようになったのは、二十七、八歳頃になってからです。妻と出会い、二十九歳で結婚したころからようやく自分らしくなれたような気がします。妻とは本音でしゃべることができるので、一緒にいるとカウンセラーと話しているような癒しの感覚を受けます。やっと自分らしく生きる場所が見つかったという感じです。」
この書籍の中で一番実感のこもっている言葉なのではないでしょうか。
川村則行氏とその妻である姉、浩子に愛と感謝をこめて。
今年は意外にも東京で過ごす方が多いようにも感じます。人が東京に押し寄せているのでしょうか?
かくいう自分もその一人ですが、こういう時には普段なかなか思いを馳せることのできていない家族のことなどを考えてみたりするものです。
ズバリ、タイトルにもしました本の題名は、私の義理の兄にあたります精神内科医、川村則行の好著です。身内が言うのも何ですが、ここ何年もまともにおつきあいしていない間柄です。それでもここ数年は、本人の活躍は耳に入ることが多く(開業直後NHKでも取材されました)この広い世の中でどなたかのお役に立たれている事を嬉しく思う限りです。
そんな訳でつい先日、タイトルの書をアマゾンで購入してみました。
他にも著作は複数、他社出版社からも出版されていますが、アマゾンの本の中身を閲覧するでこちらに(PHP研究所発行「生きる力がわいてくる本」)決めました。
義兄の得意とするところの人間観察(まあ、精神内科医ですから当然ですが)が利いていて、これまで往診された患者さんの事例に沿って、「人はなぜくじけるのか」を紹介。人間のくじるける「心の法則」を解き明かしながら、「こんな時はどう考えればよいのか」(心が軽くなるか、幸せになれるのか)を川村独自の視点で紹介しています。
重ね重ね、身内が言うのもなんですが、40代半ば頃(今の私と同じ歳)に書かれたこの本は、円熟味を帯びて来ているように感じます。
実に様々な方の症例に合わせて、症状の根本原因を説き明かし、一刀両断すべきところは一刀両断し、一見冷たく感じられるかもしれませんが、その言葉の奥にあるものは人間への”愛”に他ならないと感じます。
また、具体的な症例も多岐に渡っており、どの方にもほとんどのケースが、「自分にもあてはまるのではないか」と感じられる事ではないかと思うのです。(誰しもが心の病にはかかる可能性はあるのです。)
詳細はこちらで書き記すよりもぜひ、一度ご一読頂ければと思うのですが、私自身、最近、自分に対して「正直にありたい」という気持ちを深めているところです。そして、なぜ、「人間はそのように考えるに至ったか」、という人間のバックボーンというものを改めて考える事の大切さを実感しているところです。
バックボーンを見つめ、新たな自分の人生を生きる切り口として、この本は非常に有効であると思われますので、ぜひ、義兄の辛口で切れ味鋭くも人間を真っ正直に見つめようとする学者魂に触れてみてください。
最後に、至ってプライベートな文脈ではありますが、私自身の姉に関する記述がありましたのでこちらを紹介したく思います。もう20数年になる二人の足跡ではありますが、社会に足場を固め、ふたり二人三脚で日々共に互いを助けとし、多くの方の方々に必要とされる人生を歩んでおられます事を心より、有難く、嬉しく思う次第です。
第4章 こんなときは、こう考えよう ーよくある悩みの処方箋ーより
「自分は自分らしく生きていないのではないかと思い始めたのは中学2年のころからで、(中略)しかしその後も、どうしても期待される人間像のように振舞おうとしたのです。
そういう無理をして相手の要求に応じるということをやっているのがくだらないと思えるようになったのは、二十七、八歳頃になってからです。妻と出会い、二十九歳で結婚したころからようやく自分らしくなれたような気がします。妻とは本音でしゃべることができるので、一緒にいるとカウンセラーと話しているような癒しの感覚を受けます。やっと自分らしく生きる場所が見つかったという感じです。」
この書籍の中で一番実感のこもっている言葉なのではないでしょうか。
川村則行氏とその妻である姉、浩子に愛と感謝をこめて。
2012年11月24日土曜日
安倍さんキター!保守への回帰は本物だーー!
今日、お昼に運命の出会いがありました~。
って、何かって吉祥寺駅前でちょうどマイクを握る自民党安倍総裁に遭遇したのです。
タクシーに乗ろうと思って降りたロータリーで。しかも落ちがありまして、私が少し駅から離れた場所で後で拾ったタクシーがちょうどその前に安倍総裁御一行様を駅前で下したタクシーさんだったのです。
いやあ、やっぱり運命の出会いでしたね。もともと、安倍ファンのわたくしではありますが、なかなか生安倍さん、街宣中の安倍さんにお目にかかることはなかったのです。ちょうど近隣の撮影にきていて、、、。しかし驚いたのなんのって、あの極左管直人のおひざ元である武蔵野にあんなに人が集まって文字通り人垣になるなんて。
ちゃりんこに乗った二十歳くらいの女の子が「安倍さんじゃんー!」って走ってこいでくるし。
交差点を行き交う人も皆注目したり、足を止めたりしてジャニーズやなんかではありませんが、まるでそんな感じでみなケータイ取り出して激写したりして、主には中高年ですが中には、若人の男の声で「安倍さーん」って黄色い声援を送るひともいました。なんだかとっても温かったですね。みんなが安倍さんを待望している(国会の責任者として)。いやなんていうか、単なる政治家というよりも保守のホープ、政界でのお父様?お兄様?いや神様?みたいな、なんか赤の他人とは思えない、保守の家族の代表のような気持ちになるんですな。
本当にその場にいた人にしかわからない空気ですが、安倍さんの沿道に集まる人、一人ひとりに目を合わすように有権者の人ひとりひとりの良心に訴えかけるような言葉の一つ一つにその姿勢に心打たれてならないんです。
その場にいたほとんどの人が、普段はまともに安倍さんや自民の実績を報道しないマスコミたちもどこかで良心が保守政治家の真摯な訴えを聞き逃さないぞ、と耳を傾けていたように思うんです。
本当にまだまだ保守政党への公平な報道は少なく、心もとない日本の政治ではありますが、今日、安倍さんの不惜身命を見た限り、私の保守の心にさらに火がともりました。非力ながら、心より安倍政権の誕生をお祈り申し上げます。
追記:安倍さんの目はどこか憂いを含んだ、しかし透明な澄んだ目でした。保守政治家としての、真剣に日本を立て直したいと願う本気の政治家としての哀しみが透明な目と、熱く澄んだ声になっているのだと。
心から安倍総裁を応援します。
そして、自民をはじめ政党を超えて保守政治家の皆様を心より応援いたします。それぞれの最善を尽くして二度と暗黒の左派政党にこの国の未来をゆだねることがないように!希望の未来に、太陽の昇る国を今ひとたび目指して!頑張ってまいりましょう!
皆様、応援よろしくお願いいたします☆
って、何かって吉祥寺駅前でちょうどマイクを握る自民党安倍総裁に遭遇したのです。
タクシーに乗ろうと思って降りたロータリーで。しかも落ちがありまして、私が少し駅から離れた場所で後で拾ったタクシーがちょうどその前に安倍総裁御一行様を駅前で下したタクシーさんだったのです。
いやあ、やっぱり運命の出会いでしたね。もともと、安倍ファンのわたくしではありますが、なかなか生安倍さん、街宣中の安倍さんにお目にかかることはなかったのです。ちょうど近隣の撮影にきていて、、、。しかし驚いたのなんのって、あの極左管直人のおひざ元である武蔵野にあんなに人が集まって文字通り人垣になるなんて。
ちゃりんこに乗った二十歳くらいの女の子が「安倍さんじゃんー!」って走ってこいでくるし。
交差点を行き交う人も皆注目したり、足を止めたりしてジャニーズやなんかではありませんが、まるでそんな感じでみなケータイ取り出して激写したりして、主には中高年ですが中には、若人の男の声で「安倍さーん」って黄色い声援を送るひともいました。なんだかとっても温かったですね。みんなが安倍さんを待望している(国会の責任者として)。いやなんていうか、単なる政治家というよりも保守のホープ、政界でのお父様?お兄様?いや神様?みたいな、なんか赤の他人とは思えない、保守の家族の代表のような気持ちになるんですな。
本当にその場にいた人にしかわからない空気ですが、安倍さんの沿道に集まる人、一人ひとりに目を合わすように有権者の人ひとりひとりの良心に訴えかけるような言葉の一つ一つにその姿勢に心打たれてならないんです。
その場にいたほとんどの人が、普段はまともに安倍さんや自民の実績を報道しないマスコミたちもどこかで良心が保守政治家の真摯な訴えを聞き逃さないぞ、と耳を傾けていたように思うんです。
本当にまだまだ保守政党への公平な報道は少なく、心もとない日本の政治ではありますが、今日、安倍さんの不惜身命を見た限り、私の保守の心にさらに火がともりました。非力ながら、心より安倍政権の誕生をお祈り申し上げます。
追記:安倍さんの目はどこか憂いを含んだ、しかし透明な澄んだ目でした。保守政治家としての、真剣に日本を立て直したいと願う本気の政治家としての哀しみが透明な目と、熱く澄んだ声になっているのだと。
心から安倍総裁を応援します。
そして、自民をはじめ政党を超えて保守政治家の皆様を心より応援いたします。それぞれの最善を尽くして二度と暗黒の左派政党にこの国の未来をゆだねることがないように!希望の未来に、太陽の昇る国を今ひとたび目指して!頑張ってまいりましょう!
皆様、応援よろしくお願いいたします☆
2012年9月30日日曜日
経済支援の名のもとに中国共産党に犯されるアジア、そして日本へ
昨日、2012年9月29日の産経新聞国際面では、「中国の圧力に抵抗」と題して、チベット亡命政府による国際社会の支援要請について言及していた。
近年、中国のアジア近隣諸国に対する侵略行為が国際社会においても明るみになり、人権侵害国家であることが知られるようになったが、事の始まりは、1949年10月中国共産党政府が樹立されたことに端を発する。
翌年にはチベットに侵攻。独立国家として抵抗を試みるも、文化大革命時には6千を越える僧院と膨大な数の宗教芸術品が破壊された。また今日に渡って最大の迫害ともいえるのが、チベット人の政治的自由と言語、文化を奪い、中国の一自治区としたことだ。漢民族の大量移入による民族浄化は歴然とした事実であり、抵抗した女性が公開処刑されるというショッキングな当時の写真がマイケル・ダナム著『中国はいかにチベットを侵略したか』山際素男訳(講談社インターナショナル) に掲載されている。
その抵抗はどれほど激しいものだったか。
ダライ・ラマ14世は友好的だったインドに逃れ亡命政府を樹立するが、チベット民族の学究の中枢である僧院には、中国当局の「工作隊」が駐在し、力ずくで僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」をしていると、ダライラマ法王代表部事務所公式サイトでは明言している。しかし、60年を経た今日においてもなんら中国政府とチベット亡命政府との間では対話が行われることなく、普遍的な自由とチベット特有の文化を守ろうとする人々や僧侶によって焼身自殺という激しい抗議が続発しているのだ。
その間にも中国は旧東トルキスタン(現ウイグル自治区) をはじめ、内モンゴル、そして、世界で最も国民総幸福量が高い国として有名になったブータン王国においても、チベット自治区と隣接する兵庫県程の国の面積18%が中国人民解放軍によって中国領になってしまったという(国際紛争で明るみになったのは2005年、2006年にブータン政府正式発表)。
何ということだろうか。
「中国・ブータン国境地帯の平和と安定を保つ協定」を1998年12月に締結した両国は、国境線もその際に画定。しかし、中国はその後、境界線付近で「チベットを含む西中国の経済発展のため」として道路工事を行い、ブータン政府も管理が甘かったのか、役人が裾の下を握らされたのかいつの間にか中国領に編入されていたのだそうだ。1万人程度とされるブータン国王軍に224万人を擁するという軍事大国(しかも核兵器を開発済み)にいったいどんな対抗措置がとれるといえようか。
あまりにも隣接しているためか、直接的な争いを避け国際社会にもほとんど訴えることなく、今日のシグミ・ケサム・ナムゲル・ワンチュクブータン国王の控え目な外交活動は行われている。
一方、この手の中国による卑怯な国際貢献の名目によって、間接的な中国自治区にならんとしている国家がある。アジアの最貧民国であるラオス人民共和国だ。総工費70億ドルを見積もるラオスの国家的プロジェクト『高速鉄道建設』は中国が受注しており、中国共産党のビジネスモデルである経済特区+外資導入+賃借権”を国境のみならず全土で展開しているそうだ。5万人の中国人労働者に、中国製品が氾濫するラオス。同国の識者によれば、「大多数のラオス人に現状、高速鉄道は無用の長物」、「粗悪な中国製品と中国人が今以上になだれ込んでくるだけ」と同プロジェクトに否定的だという(川添恵子著 月刊SAPIO2011年7月20日号を参照)。
しかしもはや政治的に入りこまれているとしか言いようのない憶測を覚える。その手口で今度は、ミャンマーにも手をかけ始めているのだから。ビルマの安定的民主化への道を模索するアウンサン・スーチー氏は、”同国の援助によって軍事政権が長期化する”として懸案を示している。実際は、中国進出のみならず、「安易な経済協力を望まない」として現政権との経済協力にばかりに目を向けがちな先進諸国に自重するよう呼び掛けているそうだ。
政治が不安定な国に対してあえて『手を貸しますよ』と働きかけてくる近隣国(ましてや軍事国家)に対してどれ程の信用がおけようか。
かくいう日本は、昨今の中国との冷めた関係が「政冷経冷」と取沙汰されることが多くなったものの、まだまだビジネスを中心に世界をみる人々にとっては中国は捨てがたい、魅力を兼ね備えた大国であることだろう。
しかしそろそろ日本人も本気を出して近隣諸国や日本のみならずアジア全体の幸福のために行動しなくてはいけない時にきている。海洋国家であったため、これまで「近隣諸国に侵攻されることはないだろう」と安穏としてきたことがまったく通用しない時代になってしまったのだ。
尖閣諸島をはじめとする領海権から脅かされることになってしまった。
日本政府が小さな手立てを打って国際社会に働きかけとしてもこのままのアピール力では大した効もなく、いずれは軍事的行動に出なくてはならない日が来ることだろう。恐るべき中国帝国主義の分子をこれ以上アジアの国々にばらまくことはもはや許されることではない。今まで平和憲法の名のもとに世界が平和であるかのような錯覚を抱き、グローバル化といえども国内向けのマスメディアの情報よって踊らされてきた日本。本来は、政治的思想的信条を共有する国家、またはそれを目指している発展途上国に対してこそ援助し、日本は同盟を結ぶべきであるのだ。
次の政権交代では可及的速やかに憲法改正を行い、自分たちの国を守れる国家に生まれ変われるよう左翼政権から真正保守に政権を奪還していく。
そして、英雄願望ではなく改めて一人の人間として、執筆家として、この国のマスコミが正しい報道をなせるように促していくこと。そして自分の活動領域を拡大し、正々堂々と論陣を張り、左翼(中共より)に対して論破していく自分でありたいと思う。
さまざまな角度から自身のできることを問い直し、また日々ご愛顧頂いている皆様のご協力を賜りながら、共に協力しあっていければ幸いと考える次第である。
2012年9月23日日曜日
「うちには宗教がない」とつぶやく子供
最近、日本を取り巻く周辺諸国(尖閣問題など)もあってか、海外プレスによれば日本は右傾化している、もしくは中道化路線になってきているそうだ。
そのことは、日本のマスメディアで紹介されるよりもネットでみる保守派の言論や、twitter、facebookでも盛んに議論されていることからも明らかであるのだが、日本人の感情の奥に眠るものは何か。
そうした国防だとか明確な保守の意識がなかったとしても「日本人の本心、善なる心」として、我々日本人の健やかなる繁栄を願い、無私なる心で日々祈ってくださっている天皇陛下(天皇家)への思慕、日本人のルーツへの回帰があるのではないだろうか。
今まで若い世代を含めて言葉に出せなかった素朴な日本人の宗教的感情の一つが沸々と湧き上がってきている、地熱のようなものを私は感じ始めている。
マザー来日時の通訳も務め、クリスチャンで教育者、執筆家である渡辺和子氏の書籍「愛をこめて生きる」の一節には、家庭内暴力を始めた子供を心配し、氏を訪ねた親子の話が載っている。その子が落ち着きを取り戻し始めたころ、両親が「なぜあのようなことをしたのか」と尋ねたら、男の子は、「うちには宗教がない」と、つぶやいたそうだ。
私自身、その言葉の意味が胸に迫る。
家庭内に宗教のあることの大切さを実感している一人だ。
幼少期はミッション系の幼稚園で過ごしたが、小、中、高は公立学校。ただし、高校時代はミッション系の幼稚園で3年間を共に過ごした仲間と再会。皆、公立校当時は、宗教的な会話はしなかったが、それぞれに大学などを卒業した後、アメリカやヨーロッパ、インド(コルカタ)に渡りクリスチャンや、その他の信仰を持つに至った。
本当に「三つ子の魂百までも」というのは真実なのだ。
当時、幼かった私は経済的にも恵まれ、洋の東西を問わず偉人の成したことを尊敬する、かつ神道の神棚に仏壇、マリア像にキリスト像を置く、信心深い両親に育てられた。このことは私にとっては奇跡ともいえる、有難い人生の一コマであった。
振り返れば自分を見失い荒れ果てた人生をまさに送ろうとしていた自分が、その後、周囲の助けを得、宗教的真理を得たことは神の見えざる手業だったのかもしれない。自暴自棄から自殺することや、大きな事故に合い死んでいたことも考えられたのだ。
宗教はすべてが正しいものとは思わないし、信心だけすればよいものとは思わない。
それでも古今東西の偉人と言われるイエスやブッダ(インドや日本にも存在する民族神の存在も)、その教えや存在を信じ、自国をまとめ上げた歴代アメリカ大統領に、無抵抗非暴力主義を説いたガンジー、神の使徒として生きたマザー・テレサ。彼らの信仰による努力は決して空しいものだったとは言えないだろう。その志は後継者をは育み、アメリカという20世紀最大に繁栄した国家を生み出した。さらに今日では欧米やインド、日本で学びビルマ(ミャンマー)民主主義化のために戦い続けるアウンサンスーチー氏は、日々、小乗仏教の修行(毎朝の精神統一や祈りなど)を続けていると聞く。
人間には自然権としての”信仰する権利”を持ち合わせているのだ。
前述した子供がぽつりと漏らした「うちには宗教がない」は、誰もが素直な心になれば、宗教というものはかくも人間の希求する自然な欲求であり、共に生きていくことが当たり前の存在なのだということに気づかせてくれる言葉である。
信じるところに人間の人間たる神秘、普遍性があり、それこそが自分の心の声に素直に傾け、懸命に生きる人間の正しい姿ではないのだろうか。
日本人の右傾化とは、まず、至極当たり前の信仰という感情を取り戻すこと(神道に限らず)にあり、自ら決して否定するものではない、と私は思うのだ。
多くの日本人がまだ自覚していない宗教的真理はいたるところに隠されているのかもしれない。
取り戻すべきは根本的に「信じることの大切さ」である。
そして私たちは決してひるむことなく、自虐史観や反日思想から日本を解放すべく、戦い続けなくてはならない。
もっと言えば強い信仰心さえ日本人が持てば主権を脅かされない、強い日本を海外に示せるのではないかということだ。その時に国教となるべき宗教については言及はしないが、日本はキリスト教国でありながら多様な宗教を合わせ持つ、ブラジルのような複合型宗教国家が望ましいのではないかと考えている。もちろん日本はブラジル以上になれる国である。予想をはるかに超えて自由闊達でありながら、保守の理念と合致する創造的な国家が創られる可能性もある。
小さな一言が人間の根本にあるものをあぶり出し、その後の人生を大きく変えることもある。
同時代に生きる日本人同士が愛し合い、シンプルにともに歩める未来を考えるきっかけになれば幸いである。
拙文お許しいただければ幸いである。
そのことは、日本のマスメディアで紹介されるよりもネットでみる保守派の言論や、twitter、facebookでも盛んに議論されていることからも明らかであるのだが、日本人の感情の奥に眠るものは何か。
そうした国防だとか明確な保守の意識がなかったとしても「日本人の本心、善なる心」として、我々日本人の健やかなる繁栄を願い、無私なる心で日々祈ってくださっている天皇陛下(天皇家)への思慕、日本人のルーツへの回帰があるのではないだろうか。
今まで若い世代を含めて言葉に出せなかった素朴な日本人の宗教的感情の一つが沸々と湧き上がってきている、地熱のようなものを私は感じ始めている。
マザー来日時の通訳も務め、クリスチャンで教育者、執筆家である渡辺和子氏の書籍「愛をこめて生きる」の一節には、家庭内暴力を始めた子供を心配し、氏を訪ねた親子の話が載っている。その子が落ち着きを取り戻し始めたころ、両親が「なぜあのようなことをしたのか」と尋ねたら、男の子は、「うちには宗教がない」と、つぶやいたそうだ。
私自身、その言葉の意味が胸に迫る。
家庭内に宗教のあることの大切さを実感している一人だ。
幼少期はミッション系の幼稚園で過ごしたが、小、中、高は公立学校。ただし、高校時代はミッション系の幼稚園で3年間を共に過ごした仲間と再会。皆、公立校当時は、宗教的な会話はしなかったが、それぞれに大学などを卒業した後、アメリカやヨーロッパ、インド(コルカタ)に渡りクリスチャンや、その他の信仰を持つに至った。
本当に「三つ子の魂百までも」というのは真実なのだ。
当時、幼かった私は経済的にも恵まれ、洋の東西を問わず偉人の成したことを尊敬する、かつ神道の神棚に仏壇、マリア像にキリスト像を置く、信心深い両親に育てられた。このことは私にとっては奇跡ともいえる、有難い人生の一コマであった。
振り返れば自分を見失い荒れ果てた人生をまさに送ろうとしていた自分が、その後、周囲の助けを得、宗教的真理を得たことは神の見えざる手業だったのかもしれない。自暴自棄から自殺することや、大きな事故に合い死んでいたことも考えられたのだ。
宗教はすべてが正しいものとは思わないし、信心だけすればよいものとは思わない。
それでも古今東西の偉人と言われるイエスやブッダ(インドや日本にも存在する民族神の存在も)、その教えや存在を信じ、自国をまとめ上げた歴代アメリカ大統領に、無抵抗非暴力主義を説いたガンジー、神の使徒として生きたマザー・テレサ。彼らの信仰による努力は決して空しいものだったとは言えないだろう。その志は後継者をは育み、アメリカという20世紀最大に繁栄した国家を生み出した。さらに今日では欧米やインド、日本で学びビルマ(ミャンマー)民主主義化のために戦い続けるアウンサンスーチー氏は、日々、小乗仏教の修行(毎朝の精神統一や祈りなど)を続けていると聞く。
人間には自然権としての”信仰する権利”を持ち合わせているのだ。
前述した子供がぽつりと漏らした「うちには宗教がない」は、誰もが素直な心になれば、宗教というものはかくも人間の希求する自然な欲求であり、共に生きていくことが当たり前の存在なのだということに気づかせてくれる言葉である。
信じるところに人間の人間たる神秘、普遍性があり、それこそが自分の心の声に素直に傾け、懸命に生きる人間の正しい姿ではないのだろうか。
日本人の右傾化とは、まず、至極当たり前の信仰という感情を取り戻すこと(神道に限らず)にあり、自ら決して否定するものではない、と私は思うのだ。
多くの日本人がまだ自覚していない宗教的真理はいたるところに隠されているのかもしれない。
取り戻すべきは根本的に「信じることの大切さ」である。
そして私たちは決してひるむことなく、自虐史観や反日思想から日本を解放すべく、戦い続けなくてはならない。
もっと言えば強い信仰心さえ日本人が持てば主権を脅かされない、強い日本を海外に示せるのではないかということだ。その時に国教となるべき宗教については言及はしないが、日本はキリスト教国でありながら多様な宗教を合わせ持つ、ブラジルのような複合型宗教国家が望ましいのではないかと考えている。もちろん日本はブラジル以上になれる国である。予想をはるかに超えて自由闊達でありながら、保守の理念と合致する創造的な国家が創られる可能性もある。
小さな一言が人間の根本にあるものをあぶり出し、その後の人生を大きく変えることもある。
同時代に生きる日本人同士が愛し合い、シンプルにともに歩める未来を考えるきっかけになれば幸いである。
拙文お許しいただければ幸いである。
りせっとかふぇにてリセットされる吾輩
りせっとかふぇにてリセットされる。
薬膳スープやアートセラピー(アートワークアイス)を提供して くれる藤沢りせっとかふぇ。
取材に応対してくれたスタッフ和田さんに完全に一目ぼれ。飾り気のないボーイッシュな雰囲気に何とも言えない穏やかな笑顔。しかもお客様一人ひとりに心のこもった笑顔で接する。サービスを超えた応対といえるのではないか。
「あー、こんな笑顔で人を受け入れる女性が世の中にはいたんやなぁ。」って久々に感動した。本当に癒し系カフェって名 ばかりじゃない心のこもった対応のもできるスタッフがあってこそだもの。
控え目だけど芯のある優しさ感じさせる日本女性ってやっぱり美しい。(和田さんは褒めると顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたけどそこもかわいい、女性らしい美徳です^^)
ちなみに6つのスープから体質別に選べる薬膳の写真はこちら。↓
藤沢の飲食店のレベルの高さに脱帽な名店取材の一日でした。
ちなみにその他の素晴らしいお店の一つ一つは住宅ポータルサイト「itot」で紹介されております。 よかったらググってみてくださいね。愛すべき名店さんいっぱいありましたよ。
2012年7月29日日曜日
私が体験した少林寺拳法といじめへの対処法
昨今、いじめ問題がニュース等で取りあげられることが多い。
この件、かつていじめに遭いお子さんを亡くされたご両親を中心に発足されたNPOの活動などもあって、目をやればあちらこちらに救いのきっかけとなるチャンスが広がっているようにも思う。
ただ、問題解決にとって深刻なのは、当事者であるお子さん自身が学校や家庭外で起きているいじめの実態をご両親や、身近な大人に相談できないことであると思う。その子供の心理や、想像するに難くないが、それでも勇気を持って、誰かに自分の本心を子供たちは明かしてほしいと思う。
翻って私の子供時代を振り返ってみると、いじめというような陰湿なものではなかったが、時に高度経済成長期の日本。私は、地元で有名な自営業で成功していた父を持っていたため、サラリーマン家庭の一部の子供から嫉妬を受け、あらぬ中傷を受けるようなことはままあった。本人とは無関係の話ではあるが、それでも私は、何となく相手の事情や、自分の家庭環境の置かれた事情を客観的に把握していたため、あまり自分自身のこととして深く悩むことなく、かえって様々なことで発奮材料にすることになった。
ただ中学生になる頃、私の家の近所に住む同級生の女の子が「ガリ勉」ということで付き合いが悪いということでクラス全員からしかとを受けるというようないじめ問題が発生した。当時、私はその彼女の良いところも(努力家で一途に親の期待に応えようとしている姿)知っていたので、私は、一人でホームルームに根拠のないいじめをやめるよう訴えかけたことがある。
その時のクラス担任は、後日家庭訪問の際に、私が正義漢でいじめを止めるようクラスメートに訴えたりするようなことは慎むように。自分が今度、いじめのターゲットにされますよ、と私の両親に話して帰ったというのだ。
私は、その教師の言動に日本のサラリーマン教師の実態をみる思いがして、初めて受ける”大人社会の洗礼”にあったような気がしたものだ。
その子は翌年、父親の仕事の都合でクラスメートには何も言わずに転校。私自身、特に親しかったという程ではないので、その子の行く末やその後、目指していた東京大学に行ったかどうかは知らない(多分、途中で挫折したのではないかと思う)。
ただ、当時は一時的に子供たちの価値観に揺らぎを与え、「相手を理解できない」ということからいじめに発展したのだと思うが、それでも当時はよかった。相手に対しても「あなたのこういうところが嫌いだ」(自分の殻に閉じこもって勉強ばかりしている)など、相手に対して真っ向から向かい合い話す子供もいたからだ。
ところが今のいじめの本質はまったく違う。恐喝、脅し、根拠のない相手への誹謗中傷、自分のストレスのはけ口として、ネットを通して、リアルで相手を恫喝し、死にまで追い込む。それでも尚、次のターゲットを探し求め続けるのだという。
いじめられている子は、ターゲットにされやすい側面を持っていたに過ぎない。明らかに犯罪性を帯びた、いじめを行った加害者に問題があるのだ。もっと言えば、今起きていることは「霊障問題」であり、そうした子供を生み出した”親の問題”であり、大人のつくり出した歪んだ社会に原因があるのだ。
それを認めず、「自分の子供は悪くない」として加害者の権利を主張する親まで出てくるのだから、どこまでいっても命の大切さを子供に言って聞かせてあげることはできない、反省ができない親子になってしまうのだ。
私自身は、いずれこの問題に自分の人生をかけて取り組みたいと思っている。私は、この愛する大和の国に生まれた子供たちを守りたい,その一心だけだ。
そして、いじめられている子供たちに、せめてひとつだけでもメッセージを届けられるとしたならば、お願いだから約束してほしい。自分の悩みを誰かに話して、SOSのサインをだして下さいということを。そして自分の命を小さい存在だと思ってほしくない。私が10代の悩み多き頃、自分に対しても声をかけるとするならば、そんな経験をした、「あなたは希少な存在だ」ということだから。
私自身も自分の将来に絶望し、また無価値な人間であるかのような錯覚をし、(他の誰でもない自分自身で)自殺未遂を繰り返した人間です。(そんな10代を過ごした人間だからこそ、人の痛みは人一倍,敏感になれるのかもしれませんが…。)
それでも必ず、大人は何らかの助け船をだそうとしてくれています。
そして私が自分の肉体と向き合い、嫌なことを忘れられたのは、父親のすすめで少林寺拳法始めたことによってだ。礼に始まり礼に終わるとされる武道、少林寺拳法を始めとする剣道や空手等の武道はカラダを鍛えるだけでなく、肉体に宿る”精神をも鍛えてくれた”。
そして自分のカラダに筋肉が付き始めてくると、明らかにそれは自分自身への「自信」として変わってくるのだ。若いときならなおさらだ。精神的につらい時程、肉体は鍛えていけば精神もそれに伴っていくということを覚えていてもらいたい。
特に、少林寺憲法などの武道は、他人がどうというよりも、護身術を正しく身に付けることで、無意識のうちに自分自身を守れる武器となり、相手への防御という対処法を身につけることで自信へと繋がる。
このブログをみてくれたお父さん、お母さんへ。
今の時代、どの子でもいじめに遭う可能性はあります。そしてお子さん自身もいじめる側に回る可能性があることも…。けれどそうした時こそ、色心不二で、カラダを鍛えれば精神も鍛えられるということを思い起こして下さい。真に強い人間は、守りに徹し、相手に暴力を許すことなく、自分への確信によって、相手につけいる隙を与えない人間にもなれる、そうした可能性を秘めているのです。
どうか機会があれば是非、大人も子供も武道を学び、自分の心とカラダを鍛えるチャンスを得てもらいたい、と強く願います。
自分の人生を見限らず、肉体が健康な内はいろいろな考え方や人を知り、さまざまな経験をしていくこと。そして、「自らを鍛え、自らを守る力を身につけていくこと」によって何かがきっと変わって来ると思います。いたずらに自分を傷つけずに、今できることから一歩を踏み出してみませんか。人間は必ず変われます。
今日よりは明日、明日よりは明後日。今よりも人生はきっと良くなる、と信じて。
http://page.freett.com/shourin/shoukaibun.htm
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