2013年9月8日日曜日

2020東京オリンピック招致おめでとうございます!

いやー、ついにやっちゃいましたね。
昨日はさすがに眠れませんでした。

2016年のオリンピック招致から次の2020年こそが東京の年、と思い続けて早2年、決選投票を迎えてのこと。 
ほんとうに今回のことは、原点に遡って、石原前都知事に感謝申し上げたいです(涙)。

この方が原点であり、東京都が、そして今の猪瀬知事が引継、安倍首相になり、大いに盛り上げてくださった。ほんとうに「勝つべくして勝った!」オリンピック招致だったと思うのです。






これから7年間、きっとあっという間だと思いますが、
その頃中堅から、熟年になりつつある私たち世代にも大いにやることが一杯あると思います。

今から考えられるインフラ整備に、観光、秋葉系アニメ、原宿ファッション、サブカルチャー、飲食、日本の伝統工芸品、音楽、アドバタイジング、不動産などの経済波及効果を考えれば、もう際限なく広がって、全国規模でみれば150兆円効果とも言われています。
(大和証券シニアストラテジスト木野内栄治氏の試算より)

まあ、しょぼい経済アナリストの森なんちゃらさんなどは、3兆円やら4兆円など足もとレベルの話しかしていませんが、いや、これはもっと凄いことなんです、われわれの意識次第で。

だから、今から自分には何ができるか、「この歳だから」とあきらめずにポジティブに考え続けて、、
行動していくことを躊躇してはいけないな、と思います。


そして、日本的なるもの=『ジャパニズム』のかつてない規模で脚光を浴びる時期。
日本の産業で伸び悩みを感じていたもの
(かつての升とか、日本では使われなくなったものが外国人からみたら超クールってことで、海外ブランドのギフトボックスとして使われるようになりました)見直され、脚光を浴びる最大のチャンスでもあります。


目に見えないサービス、「おもてなし文化」も具体化していけば商機がもっともっとあるのだと思います。それは、東京だけにとどまらず、地方への観光誘致も成功するよう日本全域の交通インフラの整備も検討していくべき時期ではないでしょうか。


また、外国人の日本への移住を考えるチャンスにもなればいいですね。
法整備もその頃にはもっと進んで、規制緩和とともに、「よき日本人」を育てるカルチャーも東京を中心に日本全体で育てていきたいですね。

東京に住む人間、企業にとってのビッグチャンスですが、地方から見ても何かウリがあれば、東京進出、そして地方への外国人誘致は多いにチャンスあると思います。



特に私は、交通インフラのほか、デザイン、映像、音楽などアート、クリエイティブに関わる分野にも大きな特需があると思います。特需だけではなく、きっとオリンピックイヤーならではの芸術産業が生まれていくことでしょう。

ブエノスアイレスでのプレゼンテーション映像を見ても、日本の映像は格段に、トルコよりも進んでいる感じがしました。映像のスピード感、盛り込まれる情報量が圧倒的に違うのです。
日本は、いつの間にか映像大国でもあったのですね。



まだまだな私ですが、これから何かビジネスの種を見つけて、取り組んでいきたいと思っています。もしかしたら思わぬところにその種は転がっているかもしれません。業界を問わず、きっといたる所にその芽はありますね。

7年後はもうすぐ。
未来には夢がある」「希望がある」と信じるところから、道は開けます。

”明日を信じて” 

2013年9月5日木曜日

今、ここに記しておこう。ある伝道師との出会い(Part1)

私と幸福の科学の出会い。

それは、現在、キリスト教の伝道師となった小澤利夫さんによってもたらされたものである。

20数年前の幸福の科学の理事長を務めた方でもあり、現幸福の科学総裁によって、
草創期にたったひとり「野に下って伝道するように」との特命を与えられた人物だ。

それまで新興宗教と関わり合うことなく生きてきた私だが、強烈な姉の愛と導きによって、
私は小澤さんと出会うことになった。
1987年の3月23日だったと記憶している。

当時、私は、20歳。18歳から自由奔放に田舎から東京に出て美大浪人を続けていた。

ただこの年にかねてから、経営状態が悪化していた父の事業が不渡りを出して倒産。
父と母は離婚、実家は競売にかけられ、もはや帰るところを失っていた。
2度の浪人の失敗に、実家の倒産、そして物心ついてから私を悩まし続けてきた性同一性障害。
もうこれ以上ないくらい、破滅的な人生を送るかもしれない矢先だった。

私を霊的世界に誘い、救ってくれたのは他でもない、私を支え続けくれた姉であり、
赤の他人でありながらいち早く宗教的覚醒を得た、人生の大先輩である小澤利夫さんだったのだ。

当時、小澤さんの眉間には大きなほくろがあり、時々、目を伏せて見えない何かを察知するかの
ようなしぐさで相手の話を聞いていたのが特徴的だった。彼は、若い頃から真実の宗教を求めて
放浪、日本に仏陀が再誕されるという仏教末期の教えを
信じて、今日まで本物の師を求め続けてきたという。

あるとき、第3の眼と言われるチャクラから、「霊眼が開いた」のだそうだ。

「あなたの20年間の人生をスクリーンで見てくるように昨日見てきたよ」
「苦労のための苦労ではないんだよ。親が子どもをよい子だよい子だと言い続ければ、子どもは
よい子に育つ。でも親がおまえは悪い子だ、悪い子だと言って育てたら、子どもは悪い子に育つ
よね」といった。

この日、いろいろな言葉を投げかけられたが、それは光のシャワーのようなものだったのかもしれない。たった一生の内、
一度訪れるかどうかの「貴人との出会い」によって私の人生は前後裁断されたのだ。

「あなたはこの方の本を読めばわかるよ。我々には使命があるんだからね。」と。

その後、一冊、自ら本屋で「日蓮の霊言」を見つけ、それ以降は、隔週くらいで発刊される高級霊
と言われる方の霊言集、そして「太陽の法」などの理論書を夢中になって読みふけっていった。

私の人生は、まるで眼には見えない決壊が破れ、魂が大きく揺さぶられ、もう元の自分に戻ることはできないくらいに、大きな魂の変化が起きていた。

その後も本を読み続け、友人知人を小澤さんに紹介(伝道)し、若輩者の身で「畏れ多いこと」
と、幸福の科学の会員になるには、10年位かけて社会貢献ができる自分になったら胸を張って
会員にならせていただこう、と心に誓っていた。

思いのほか、その日は早くやってきた。22歳 の夏、いてもたってもいられず、当時は試験制度があったため入会願書に読書感想文と、「何のために会員になるのか」、を書いて提出。
ほどなくして二重◎付で「大川」と直筆サインの入った試験用紙と、合格証が届いた。

その大切な記念品のようなものさえ、今はどこにあるのか、おそらく数度の引っ越しで
紛失したと思わるが、もっと大切にとっておけば、今もう少し違った人生になったのかもしれない。


その時から、25年の歳月が流れた。
長いようで短かった、青年期の20代前半~40代後半までのこの時間。
何ひとつ後悔がないと言えば、嘘である。

宗教的真理に出会い、ある種の覚醒が起き、ビギナーズラックのようなことが立て続けに起きた
のは、最初の3年間だ。

それ以降は、やはり、伝道しようと、押し広げようとすると友人や、職場での人間関係に
亀裂は入った。なにより、自分自身が未熟だった。何も「良い教え」を知ったからといって、
それを即座に
人生に使いこなせるほど、簡単なことではないのだ。

それでも周囲に家族を始め、「仏法真理」と呼ばれる幸福の科学の教えが広がっていくと
家族間の人間関係はもちろんのこと、一人ひとりの人生も大きく変わり始めた。

そして今、70代半ばになる母は 、毎回、幸福実現党の選挙になるたびに、全力で応援し、
わが身を顧みることなく選挙を駆け抜けた後は、原因不明の病に侵され、吐血を繰り返し、
足はこむら返りを何度も繰り返す。

それだけボランティアに、伝道に残りの人生を、お返しの人生として命をかけているのだ。

私としては、母の誠意ある思いに心打たれながらも、「何もそこまでやらなくても」と、田舎
に帰る度に、母の姿を見ておもったりもするものだ。

そんな信者として真面目な母の想いもあってか、こどもの時、幼稚園がミッションスクール
だったのが影響してか、信仰をベースに生きる指針としてきた私の人生だが、そんな私も
40代の後半に入り、人生の転換期を迎えているように思う。

永遠の求道者にして、伝道師・小澤利夫さんについて、書きたかったのだが、本題に入る
前の序文が長くなってしまったので、残念ながら今日はここまで。

今後は、私と幸福の科学とを運命的に繋ぎ合わせた小澤利夫さんのこと、そして、大川総裁
との少なからずある思い出についても折に触れて、書き記しておきたいと思う。

とにかく、25年前に一つの人生の始まりがあったということを記して。

ここまで読んで下さった皆さま、ありがとうございます。

また、お会いしましょう。