2012年11月24日土曜日

安倍さんキター!保守への回帰は本物だーー!

今日、お昼に運命の出会いがありました~。
って、何かって吉祥寺駅前でちょうどマイクを握る自民党安倍総裁に遭遇したのです。
タクシーに乗ろうと思って降りたロータリーで。しかも落ちがありまして、私が少し駅から離れた場所で後で拾ったタクシーがちょうどその前に安倍総裁御一行様を駅前で下したタクシーさんだったのです。


いやあ、やっぱり運命の出会いでしたね。もともと、安倍ファンのわたくしではありますが、なかなか生安倍さん、街宣中の安倍さんにお目にかかることはなかったのです。ちょうど近隣の撮影にきていて、、、。しかし驚いたのなんのって、あの極左管直人のおひざ元である武蔵野にあんなに人が集まって文字通り人垣になるなんて。
ちゃりんこに乗った二十歳くらいの女の子が「安倍さんじゃんー!」って走ってこいでくるし。

 

 
交差点を行き交う人も皆注目したり、足を止めたりしてジャニーズやなんかではありませんが、まるでそんな感じでみなケータイ取り出して激写したりして、主には中高年ですが中には、若人の男の声で「安倍さーん」って黄色い声援を送るひともいました。なんだかとっても温かったですね。みんなが安倍さんを待望している(国会の責任者として)。いやなんていうか、単なる政治家というよりも保守のホープ、政界でのお父様?お兄様?いや神様?みたいな、なんか赤の他人とは思えない、保守の家族の代表のような気持ちになるんですな。



本当にその場にいた人にしかわからない空気ですが、安倍さんの沿道に集まる人、一人ひとりに目を合わすように有権者の人ひとりひとりの良心に訴えかけるような言葉の一つ一つにその姿勢に心打たれてならないんです。

その場にいたほとんどの人が、普段はまともに安倍さんや自民の実績を報道しないマスコミたちもどこかで良心が保守政治家の真摯な訴えを聞き逃さないぞ、と耳を傾けていたように思うんです。



本当にまだまだ保守政党への公平な報道は少なく、心もとない日本の政治ではありますが、今日、安倍さんの不惜身命を見た限り、私の保守の心にさらに火がともりました。非力ながら、心より安倍政権の誕生をお祈り申し上げます。
 




追記:安倍さんの目はどこか憂いを含んだ、しかし透明な澄んだ目でした。保守政治家としての、真剣に日本を立て直したいと願う本気の政治家としての哀しみが透明な目と、熱く澄んだ声になっているのだと。

心から安倍総裁を応援します。
そして、自民をはじめ政党を超えて保守政治家の皆様を心より応援いたします。それぞれの最善を尽くして二度と暗黒の左派政党にこの国の未来をゆだねることがないように!希望の未来に、太陽の昇る国を今ひとたび目指して!頑張ってまいりましょう!

皆様、応援よろしくお願いいたします☆

2012年9月30日日曜日

経済支援の名のもとに中国共産党に犯されるアジア、そして日本へ



昨日、2012年9月29日の産経新聞国際面では、「中国の圧力に抵抗」と題して、チベット亡命政府による国際社会の支援要請について言及していた。

近年、中国のアジア近隣諸国に対する侵略行為が国際社会においても明るみになり、人権侵害国家であることが知られるようになったが、事の始まりは、1949年10月中国共産党政府が樹立されたことに端を発する。

翌年にはチベットに侵攻。独立国家として抵抗を試みるも、文化大革命時には6千を越える僧院と膨大な数の宗教芸術品が破壊された。また今日に渡って最大の迫害ともいえるのが、チベット人の政治的自由と言語、文化を奪い、中国の一自治区としたことだ。漢民族の大量移入による民族浄化は歴然とした事実であり、抵抗した女性が公開処刑されるというショッキングな当時の写真がマイケル・ダナム著『中国はいかにチベットを侵略したか』山際素男訳(講談社インターナショナル) に掲載されている。



その抵抗はどれほど激しいものだったか。

ダライ・ラマ14世は友好的だったインドに逃れ亡命政府を樹立するが、チベット民族の学究の中枢である僧院には、中国当局の「工作隊」が駐在し、力ずくで僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」をしていると、ダライラマ法王代表部事務所公式サイトでは明言している。しかし、60年を経た今日においてもなんら中国政府とチベット亡命政府との間では対話が行われることなく、普遍的な自由とチベット特有の文化を守ろうとする人々や僧侶によって焼身自殺という激しい抗議が続発しているのだ。


その間にも中国は旧東トルキスタン(現ウイグル自治区) をはじめ、内モンゴル、そして、世界で最も国民総幸福量が高い国として有名になったブータン王国においても、チベット自治区と隣接する兵庫県程の国の面積18%が中国人民解放軍によって中国領になってしまったという(国際紛争で明るみになったのは2005年、2006年にブータン政府正式発表)。

何ということだろうか。

「中国・ブータン国境地帯の平和と安定を保つ協定」を1998年12月に締結した両国は、国境線もその際に画定。しかし、中国はその後、境界線付近で「チベットを含む西中国の経済発展のため」として道路工事を行い、ブータン政府も管理が甘かったのか、役人が裾の下を握らされたのかいつの間にか中国領に編入されていたのだそうだ。1万人程度とされるブータン国王軍に224万人を擁するという軍事大国(しかも核兵器を開発済み)にいったいどんな対抗措置がとれるといえようか。

あまりにも隣接しているためか、直接的な争いを避け国際社会にもほとんど訴えることなく、今日のシグミ・ケサム・ナムゲル・ワンチュクブータン国王の控え目な外交活動は行われている。



一方、この手の中国による卑怯な国際貢献の名目によって、間接的な中国自治区にならんとしている国家がある。アジアの最貧民国であるラオス人民共和国だ。総工費70億ドルを見積もるラオスの国家的プロジェクト『高速鉄道建設』は中国が受注しており、中国共産党のビジネスモデルである経済特区+外資導入+賃借権”を国境のみならず全土で展開しているそうだ。5万人の中国人労働者に、中国製品が氾濫するラオス。同国の識者によれば、「大多数のラオス人に現状、高速鉄道は無用の長物」、「粗悪な中国製品と中国人が今以上になだれ込んでくるだけ」と同プロジェクトに否定的だという(川添恵子著 月刊SAPIO2011年7月20日号を参照)。

しかしもはや政治的に入りこまれているとしか言いようのない憶測を覚える。その手口で今度は、ミャンマーにも手をかけ始めているのだから。ビルマの安定的民主化への道を模索するアウンサン・スーチー氏は、”同国の援助によって軍事政権が長期化する”として懸案を示している。実際は、中国進出のみならず、「安易な経済協力を望まない」として現政権との経済協力にばかりに目を向けがちな先進諸国に自重するよう呼び掛けているそうだ。



政治が不安定な国に対してあえて『手を貸しますよ』と働きかけてくる近隣国(ましてや軍事国家)に対してどれ程の信用がおけようか。

かくいう日本は、昨今の中国との冷めた関係が「政冷経冷」と取沙汰されることが多くなったものの、まだまだビジネスを中心に世界をみる人々にとっては中国は捨てがたい、魅力を兼ね備えた大国であることだろう。

しかしそろそろ日本人も本気を出して近隣諸国や日本のみならずアジア全体の幸福のために行動しなくてはいけない時にきている。海洋国家であったため、これまで「近隣諸国に侵攻されることはないだろう」と安穏としてきたことがまったく通用しない時代になってしまったのだ。
尖閣諸島をはじめとする領海権から脅かされることになってしまった。

日本政府が小さな手立てを打って国際社会に働きかけとしてもこのままのアピール力では大した効もなく、いずれは軍事的行動に出なくてはならない日が来ることだろう。恐るべき中国帝国主義の分子をこれ以上アジアの国々にばらまくことはもはや許されることではない。今まで平和憲法の名のもとに世界が平和であるかのような錯覚を抱き、グローバル化といえども国内向けのマスメディアの情報よって踊らされてきた日本。本来は、政治的思想的信条を共有する国家、またはそれを目指している発展途上国に対してこそ援助し、日本は同盟を結ぶべきであるのだ。


次の政権交代では可及的速やかに憲法改正を行い、自分たちの国を守れる国家に生まれ変われるよう左翼政権から真正保守に政権を奪還していく。

そして、英雄願望ではなく改めて一人の人間として、執筆家として、この国のマスコミが正しい報道をなせるように促していくこと。そして自分の活動領域を拡大し、正々堂々と論陣を張り、左翼(中共より)に対して論破していく自分でありたいと思う。

さまざまな角度から自身のできることを問い直し、また日々ご愛顧頂いている皆様のご協力を賜りながら、共に協力しあっていければ幸いと考える次第である。 

2012年9月23日日曜日

「うちには宗教がない」とつぶやく子供

最近、日本を取り巻く周辺諸国(尖閣問題など)もあってか、海外プレスによれば日本は右傾化している、もしくは中道化路線になってきているそうだ。

そのことは、日本のマスメディアで紹介されるよりもネットでみる保守派の言論や、twitter、facebookでも盛んに議論されていることからも明らかであるのだが、日本人の感情の奥に眠るものは何か。

そうした国防だとか明確な保守の意識がなかったとしても「日本人の本心、善なる心」として、我々日本人の健やかなる繁栄を願い、無私なる心で日々祈ってくださっている天皇陛下(天皇家)への思慕、日本人のルーツへの回帰があるのではないだろうか。

今まで若い世代を含めて言葉に出せなかった素朴な日本人の宗教的感情の一つが沸々と湧き上がってきている、地熱のようなものを私は感じ始めている。

マザー来日時の通訳も務め、クリスチャンで教育者、執筆家である渡辺和子氏の書籍「愛をこめて生きる」の一節には、家庭内暴力を始めた子供を心配し、氏を訪ねた親子の話が載っている。その子が落ち着きを取り戻し始めたころ、両親が「なぜあのようなことをしたのか」と尋ねたら、男の子は、「うちには宗教がない」と、つぶやいたそうだ。

 私自身、その言葉の意味が胸に迫る。
家庭内に宗教のあることの大切さを実感している一人だ。

幼少期はミッション系の幼稚園で過ごしたが、小、中、高は公立学校。ただし、高校時代はミッション系の幼稚園で3年間を共に過ごした仲間と再会。皆、公立校当時は、宗教的な会話はしなかったが、それぞれに大学などを卒業した後、アメリカやヨーロッパ、インド(コルカタ)に渡りクリスチャンや、その他の信仰を持つに至った。

本当に「三つ子の魂百までも」というのは真実なのだ。
当時、幼かった私は経済的にも恵まれ、洋の東西を問わず偉人の成したことを尊敬する、かつ神道の神棚に仏壇、マリア像にキリスト像を置く、信心深い両親に育てられた。このことは私にとっては奇跡ともいえる、有難い人生の一コマであった。

振り返れば自分を見失い荒れ果てた人生をまさに送ろうとしていた自分が、その後、周囲の助けを得、宗教的真理を得たことは神の見えざる手業だったのかもしれない。自暴自棄から自殺することや、大きな事故に合い死んでいたことも考えられたのだ。

宗教はすべてが正しいものとは思わないし、信心だけすればよいものとは思わない。

それでも古今東西の偉人と言われるイエスやブッダ(インドや日本にも存在する民族神の存在も)、その教えや存在を信じ、自国をまとめ上げた歴代アメリカ大統領に、無抵抗非暴力主義を説いたガンジー、神の使徒として生きたマザー・テレサ。彼らの信仰による努力は決して空しいものだったとは言えないだろう。その志は後継者をは育み、アメリカという20世紀最大に繁栄した国家を生み出した。さらに今日では欧米やインド、日本で学びビルマ(ミャンマー)民主主義化のために戦い続けるアウンサンスーチー氏は、日々、小乗仏教の修行(毎朝の精神統一や祈りなど)を続けていると聞く。

人間には自然権としての”信仰する権利”を持ち合わせているのだ。


前述した子供がぽつりと漏らした「うちには宗教がない」は、誰もが素直な心になれば、宗教というものはかくも人間の希求する自然な欲求であり、共に生きていくことが当たり前の存在なのだということに気づかせてくれる言葉である。

信じるところに人間の人間たる神秘、普遍性があり、それこそが自分の心の声に素直に傾け、懸命に生きる人間の正しい姿ではないのだろうか。

日本人の右傾化とは、まず、至極当たり前の信仰という感情を取り戻すこと(神道に限らず)にあり、自ら決して否定するものではない、と私は思うのだ。

多くの日本人がまだ自覚していない宗教的真理はいたるところに隠されているのかもしれない。
取り戻すべきは根本的に「信じることの大切さ」である。

そして私たちは決してひるむことなく、自虐史観や反日思想から日本を解放すべく、戦い続けなくてはならない。

もっと言えば強い信仰心さえ日本人が持てば主権を脅かされない、強い日本を海外に示せるのではないかということだ。その時に国教となるべき宗教については言及はしないが、日本はキリスト教国でありながら多様な宗教を合わせ持つ、ブラジルのような複合型宗教国家が望ましいのではないかと考えている。もちろん日本はブラジル以上になれる国である。予想をはるかに超えて自由闊達でありながら、保守の理念と合致する創造的な国家が創られる可能性もある。

小さな一言が人間の根本にあるものをあぶり出し、その後の人生を大きく変えることもある。


同時代に生きる日本人同士が愛し合い、シンプルにともに歩める未来を考えるきっかけになれば幸いである。

拙文お許しいただければ幸いである。

りせっとかふぇにてリセットされる吾輩




















りせっとかふぇにてリセットされる。
薬膳スープやアートセラピー(アートワークアイス)を提供して くれる藤沢りせっとかふぇ。
取材に応対してくれたスタッフ和田さんに完全に一目ぼれ。飾り気のないボーイッシュな雰囲気に何とも言えない穏やかな笑顔。しかもお客様一人ひとりに心のこもった笑顔で接する。サービスを超えた応対といえるのではないか。

「あー、こんな笑顔で人を受け入れる女性が世の中にはいたんやなぁ。」って久々に感動した。本当に癒し系カフェって名 ばかりじゃない心のこもった対応のもできるスタッフがあってこそだもの。

控え目だけど芯のある優しさ感じさせる日本女性ってやっぱり美しい。(和田さんは褒めると顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたけどそこもかわいい、女性らしい美徳です^^)

ちなみに6つのスープから体質別に選べる薬膳の写真はこちら。↓

 

















藤沢の飲食店のレベルの高さに脱帽な名店取材の一日でした。
ちなみにその他の素晴らしいお店の一つ一つは住宅ポータルサイト「itot」で紹介されております。 よかったらググってみてくださいね。愛すべき名店さんいっぱいありましたよ。

2012年7月29日日曜日

私が体験した少林寺拳法といじめへの対処法


昨今、いじめ問題がニュース等で取りあげられることが多い。

この件、かつていじめに遭いお子さんを亡くされたご両親を中心に発足されたNPOの活動などもあって、目をやればあちらこちらに救いのきっかけとなるチャンスが広がっているようにも思う。

ただ、問題解決にとって深刻なのは、当事者であるお子さん自身が学校や家庭外で起きているいじめの実態をご両親や、身近な大人に相談できないことであると思う。その子供の心理や、想像するに難くないが、それでも勇気を持って、誰かに自分の本心を子供たちは明かしてほしいと思う。

翻って私の子供時代を振り返ってみると、いじめというような陰湿なものではなかったが、時に高度経済成長期の日本。私は、地元で有名な自営業で成功していた父を持っていたため、サラリーマン家庭の一部の子供から嫉妬を受け、あらぬ中傷を受けるようなことはままあった。本人とは無関係の話ではあるが、それでも私は、何となく相手の事情や、自分の家庭環境の置かれた事情を客観的に把握していたため、あまり自分自身のこととして深く悩むことなく、かえって様々なことで発奮材料にすることになった。

ただ中学生になる頃、私の家の近所に住む同級生の女の子が「ガリ勉」ということで付き合いが悪いということでクラス全員からしかとを受けるというようないじめ問題が発生した。当時、私はその彼女の良いところも(努力家で一途に親の期待に応えようとしている姿)知っていたので、私は、一人でホームルームに根拠のないいじめをやめるよう訴えかけたことがある。

その時のクラス担任は、後日家庭訪問の際に、私が正義漢でいじめを止めるようクラスメートに訴えたりするようなことは慎むように。自分が今度、いじめのターゲットにされますよ、と私の両親に話して帰ったというのだ。

私は、その教師の言動に日本のサラリーマン教師の実態をみる思いがして、初めて受ける”大人社会の洗礼”にあったような気がしたものだ。

その子は翌年、父親の仕事の都合でクラスメートには何も言わずに転校。私自身、特に親しかったという程ではないので、その子の行く末やその後、目指していた東京大学に行ったかどうかは知らない(多分、途中で挫折したのではないかと思う)。

ただ、当時は一時的に子供たちの価値観に揺らぎを与え、「相手を理解できない」ということからいじめに発展したのだと思うが、それでも当時はよかった。相手に対しても「あなたのこういうところが嫌いだ」(自分の殻に閉じこもって勉強ばかりしている)など、相手に対して真っ向から向かい合い話す子供もいたからだ。

ところが今のいじめの本質はまったく違う。恐喝、脅し、根拠のない相手への誹謗中傷、自分のストレスのはけ口として、ネットを通して、リアルで相手を恫喝し、死にまで追い込む。それでも尚、次のターゲットを探し求め続けるのだという。


いじめられている子は、ターゲットにされやすい側面を持っていたに過ぎない。明らかに犯罪性を帯びた、いじめを行った加害者に問題があるのだ。もっと言えば、今起きていることは「霊障問題」であり、そうした子供を生み出した”親の問題”であり、大人のつくり出した歪んだ社会に原因があるのだ。

それを認めず、「自分の子供は悪くない」として加害者の権利を主張する親まで出てくるのだから、どこまでいっても命の大切さを子供に言って聞かせてあげることはできない、反省ができない親子になってしまうのだ。

私自身は、いずれこの問題に自分の人生をかけて取り組みたいと思っている。私は、この愛する大和の国に生まれた子供たちを守りたい,その一心だけだ。

そして、いじめられている子供たちに、せめてひとつだけでもメッセージを届けられるとしたならば、お願いだから約束してほしい。自分の悩みを誰かに話して、SOSのサインをだして下さいということを。そして自分の命を小さい存在だと思ってほしくない。私が10代の悩み多き頃、自分に対しても声をかけるとするならば、そんな経験をした、「あなたは希少な存在だ」ということだから。

私自身も自分の将来に絶望し、また無価値な人間であるかのような錯覚をし、(他の誰でもない自分自身で)自殺未遂を繰り返した人間です。(そんな10代を過ごした人間だからこそ、人の痛みは人一倍,敏感になれるのかもしれませんが…。)

それでも必ず、大人は何らかの助け船をだそうとしてくれています。

そして私が自分の肉体と向き合い、嫌なことを忘れられたのは、父親のすすめで少林寺拳法始めたことによってだ。礼に始まり礼に終わるとされる武道、少林寺拳法を始めとする剣道や空手等の武道はカラダを鍛えるだけでなく、肉体に宿る”精神をも鍛えてくれた”。

そして自分のカラダに筋肉が付き始めてくると、明らかにそれは自分自身への「自信」として変わってくるのだ。若いときならなおさらだ。精神的につらい時程、肉体は鍛えていけば精神もそれに伴っていくということを覚えていてもらいたい。

特に、少林寺憲法などの武道は、他人がどうというよりも、護身術を正しく身に付けることで、無意識のうちに自分自身を守れる武器となり、相手への防御という対処法を身につけることで自信へと繋がる。

このブログをみてくれたお父さん、お母さんへ。

今の時代、どの子でもいじめに遭う可能性はあります。そしてお子さん自身もいじめる側に回る可能性があることも…。けれどそうした時こそ、色心不二で、カラダを鍛えれば精神も鍛えられるということを思い起こして下さい。真に強い人間は、守りに徹し、相手に暴力を許すことなく、自分への確信によって、相手につけいる隙を与えない人間にもなれる、そうした可能性を秘めているのです。

どうか機会があれば是非、大人も子供も武道を学び、自分の心とカラダを鍛えるチャンスを得てもらいたい、と強く願います。

自分の人生を見限らず、肉体が健康な内はいろいろな考え方や人を知り、さまざまな経験をしていくこと。そして、「自らを鍛え、自らを守る力を身につけていくこと」によって何かがきっと変わって来ると思います。いたずらに自分を傷つけずに、今できることから一歩を踏み出してみませんか。人間は必ず変われます。

今日よりは明日、明日よりは明後日。今よりも人生はきっと良くなる、と信じて。
http://page.freett.com/shourin/shoukaibun.htm


2012年7月5日木曜日

7月4日アメリカ独立記念日に思う

今日は、昨夜までの雨がやみ、晴れ渡る快晴だった。

すべての負を拭い去る爽やかな日差しに神のご加護を受けているという万感の思いがこみ上げてくる。今日は、大切な人の大切な日だ。

2012年7月4日。

7月4日というこの日は、くしくも日本でもトム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」という映画で一般的にも知られるようになったアメリカの独立記念日でもある。

いわずもがな米国がイギリスの植民地支配に耐えかねて、自由と独立を求めて独立宣言が採択された日だ。


この晴れがましい日に、幸福実現党党本部にて釈量子氏の、「太陽の昇る国、ふたたびー新しい女性の時代へ」と題した講話および、「猛女対談 腹をくくって国を守れ」のサイン会が開催された(私は所用で出席できなかったが)。

不浄なものが渦巻く日本政界にあって、認知さえされていない宗教政党が3年経った今も、その志を覆さず、むしろ、その念いたるや3年前以上に真剣に、そしてさらに真実味を帯びて猪突猛進の活動をしているのである。それだけでも良心のある人なら頭が下がる思いではないだろうか。

幸福実現党の皆様は皆、それぞれに熱い情熱を持ち、誠実なインテリジェンス溢れる勇士そのものであるが、とりわけ今年、入党した釈量子氏は注目に値する人物だ。

その魂のルーツは、神道の神々に名を連ねるお一人であり、日本を正しく導きたいという彼女の意思は、まさしく岩をも動かさん、である。

それにはもちろん理由があってのことで、詳しくは、ご本人のBlogや幸福実現党HPに委ねたいと思うが、今後もその動向を見守り、温かく応援していく所存だ。
http://shaku-ryoko.net/
http://www.hr-party.jp/


そして、7月4日、話は、アメリカ独立記念日に寄せてである。

アジア太平洋地域の諸事情から日米同盟に揺らぎが与えられる昨今、「待ったなし」と言えば、総理の専売特許ではなく、中国問題(沖縄基地問題)、朝鮮核問題の国防のことをいうのである。

日本を取り囲む厳しい環境の下、日本は冷静な秩序を取り戻すべく、最後はアメリカから”精神的脱藩”をしなくてはならない、ということではないか。もちろん日米同盟を破棄しろ、というようなことではない。むしろかつてない程に、万難を排してアメリカとは綿密な軍事的連携を当面はしていかなくてはならない。

が、結局は最後は『日本はどうしたいのか』ということなのだ。

21世紀に台頭する中国を隣国に頂きながら、あくまで自国の防衛の要をアジアから手を引こうとしている同盟国に委ね続けるのか。女の涙、いや男の涙でもってつなぎ止めておけるのか。それとも勇ましく一国で立ち、「出来る限りの防衛は自国で行います」と、多少の軋轢は起きたとしても、アメリカに対して正々堂々と独立宣言をするのか。
今を生きる我々にとっては、早かれ遅かれ、いずれ答えを出さねばならないことになる。

私は愛するアメリカを観ていて思う。実は自立ということを最も尊び、本当は世界の同盟国に対してもそれを求めていることを…。

20世紀、最も発展し、自由を謳歌した国、アメリカ。
どこよりも強く、世界の警察として栄華を極めた国、アメリカ。

その独立記念日に際し、今最も大切なことは250年前の独立を祝うことだけではなく、日本は、明治の夜明け、いち早く西洋に学び脱藩した人々に思いを寄せれば、今度は、日本がアメリカから軍事的にも”脱藩を図るとき”に来ているのではないだろうか、と思うのだ。

親愛なるアメリカよ、これまで「ありがとう」。

そして、これから生まれ変わる日本をよろしく、と!

きっと私たちはあなた方に学び、そして本当の自立を、独立を、脱藩を成し遂げて参ります。

そして、大和の国がふたたび、雄々しくその姿を人々の前に現さんとする時、日本のみならず、世界の人々はその光に浴することができるのです、と。


今後、益々、幸福実現党の皆様のご活躍を祈念して

そしてこのBlogを釈量子さんに捧げます。

2012年6月23日土曜日

心の果実「祈り」

祈りの意味は、誰もが本能的に知っていることであり、信仰の対象に関わらず、一度は誰もが祈りを捧げたことがあるのではないだろうか。

かたや祝福とは、何か。辞書をひもとけば「幸福を喜び祝うこと」、または「幸福を祈ること」とあり、キリスト教で「神の恵みが与えられること」、「神からの恵み」とある。
聖書において繰り返し出て来る言葉であるが、旧約聖書のヘブライ語では、「救済に満ちた力を付与する」という原意があるそうだ。

元来、物質的な恵みを神から与えられることを指す。ユダヤ教的なまるで神と取引をしているような契約の言葉のように思わなくもないが、今日、私が書き留めておきたいのは、神から与えられる恵みをどのように受け取ったか、ある人の心の声についてである。

渡辺和子著「愛を込めて生きる」より
「祈り」の章より抜粋

ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁に一人の患者が詩を残している。その一部を紹介する。


大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜をまなぶようにと 弱さを授かった

偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表わせない祈りは
すべて叶えられた

私は最も豊かに祝福されたのだ

・・・・
「求めよ さらば与えられん」というみことばは決して、求めたものが与えられることを約束していない。私たちは、往々にして“欲しいもの”を願っている。しかし神が与え給うのは、私たちが”必要としているもの”であり、そこに神の愛がある。

何を与えられるようと、それを”祝福”と受け取れること、それが祈りの真に求めるべき果実ではないだろうか。 

一部抜粋

これ以上の解釈や説明は不要かと思う。
人生の果実とは思わぬところにあるものだ。日々、心の中の言い表せない思いは聞き届けられていると私は実感しているひとりである。



2012年6月15日金曜日

12年前におきた奇跡の体験


この夏、買ったばかりのスポーツサイクルで颯爽と取材へって、もちろんそんな颯爽とはしていないんですが、昔は車でよく通っていた目黒通り沿いを今日は、久しぶりに自転車で目黒方面へと向いました。

昼間の目黒区は碑文谷のダイエーとか、クイーンズ伊勢丹やらで意外と歩行者の通は混雑していて、意外と爽快感がなかったですね。自転車はスピードの出る広い4車線道路の目黒通りを走れるわけもなく、ひたすら行き交う歩行者と、自転車、そして一時停止を無視して通行する車やバイクと格闘しながら往復2時間半の距離をこぎ続けました。

そんな帰り道、ホームタウンの世田谷通りに入ってから路地から飛び出してきたばいくとぶつかりそうになって…。「ほんと危ないなあ」って思っていたらある日のことを思い出したんです。

今思えば、あれは奇跡に近いものだったのかなと思うんですが、2000年頃、日産のマーチに乗っていた頃、比較的、車間を空けて、自然な流れに任せて目黒通りを走行していたのですが、いきなり前を走っていたアルファロメオが後ろ向きにスピンしながら、わたしの運転する車に向って暴走を始めたのです。

一瞬の出来事でしたが、くるくる旋回しながら後退してくるアルファロメを見ていたら「もうこれはダメだ」と思ったんです。その瞬間,心の中で「せめて取り乱すことなく、安らかにあの世に旅立てますように」と自分でも一瞬のうちに頭が切り替わって覚悟ができたんですね。

それでもう目を閉じてしまおうかなと思った瞬間、30mくらい手前のところで急にアルファロメオのスピンが止まって歩道の脇に停車したんです。

目黒通りは片道2車線、そのままでは車体がぶつかってしまう距離だったのですが、ふと横をみると、いつも往来が激しい目黒通りの片側に車は走行していない。その隙にハンドルを一気に右に切り、私はアルファロメを難なく交わし、先程までの異常事態が嘘のように、何ごともなかったかのように他の車から見ると平然と走行している私の車があるだけでした。

あまりの一瞬とも言える時間だったのですが、でもスローモーションのようにその時、頭によぎったこと、覚悟を決めたときの自身の安らかな気持ちを今でも鮮明に覚えています。

人間、いざとなると強いものです。

覚悟をきめられるものなのですね。それはまあ、子供のときから信仰のある生活環境に生き、何ら疑問の余地を挟むことなくあの世の世界を信じて生きてきましたから、そのお陰でしょうか。それとも目に見えないところで見守って下さっている霊的パワーのお陰かもしれません。

いずれにしろ、その時の私は、まるで異次元空間にタイムスリップしたような、この世とあの世の一瞬の間にいたような時間を過ごしたように思います。

あのとき、自分を加護して下さった存在があったのならそれはどこかでお参りにでも行って感謝しないといけませんね。今思えばそれだけでは感謝が足りないかもしれません。

生きる必要がなければ、あの時、33歳くらいの自分であの世に旅立っていてもおかしくなかったのですから、生かされている意味が、何か大きな意味があるのかもしれません。

であるならば、だいぶ時間が経ってはしまいましたが、何らかの形で今後の人生でお返しをしなくてはいけませんね。

今日はそんな10数年前のことを昨日のことのように思い出したので、blogに書き留めてみました。

皆様方は、決して惜しまれるような交通事故等に遭いませんように。

ただいつでもあの世に旅立てる心境というのも人間いつ何時何があるか分かりませんから、心の準備だけはしておきたいものです。

またあの時のような透明な心境になれるかどうかは分かりませんが、自分が霊界から来た天上の住人であり、またそこに還るのだと思えば死は恐れるに足りないものであることは言うまでもありません。

どんな人もに等しく死は訪れますから。またその日は決して悪いことではなく、自分の生きた人生を清算する新たな旅たちの日でもあるのです。


2012年6月13日水曜日

またまた総選挙か。 Is Japan a general election again?





これは、あくまで私の予見です。
This is my foreknowledge to the last. 

このままいけば、日本の総選挙は早まるのではないでしょうか?
If it goes as it is, isn't it probably rash in a general election of Japan? 

恐らくは早ければ今年の秋。
Probably, the beginning of autumn of this year will come a general election. 

なぜなら、日本の与党である民主党と、野党である自民党との社会保障に関する考えは異なり、消費税増税案は、可決されるとは思えないからです。6月12日時点
It is because I cannot think that the ideas about the social security of the Japanese present governing party and main opposition party differ, and the tax increase bill of a consumption tax is approved. 
June 12 time. 

加えて、日本の中国大使である丹羽宇一郎氏の「尖閣諸島購入支持する日本国民はおかしい」等の発言で外相及び現政権の対応が注目されています。
Besides, in addition, in the remark of Mr. Uichiro Niwa who is Japan's China ambassador made "amusing [ the Japanese who do the Senkaku Islands purchase support ]", correspondence of the Foreign Minister and the government attracts attention. 

丹羽氏を更迭することなく、現状のまま据え置けば保守派層との火種はくすぶり続け、自民党が解散総選挙へのステップボードにする可能性があるからです。
For example, it is because it may become a spark with a conservatives layer and the Liberal Democratic Party may make it the step board to a snap general election, if it keeps unchanged, without dismissing Mr. Niwa as it is. 

何かとちぐはぐな日本政治です。
Politics of Japan does not show composure. 

現在の野田首相は心を入れ替え、何とか防衛面、原発(電力)面では、前向きに取り組んでいますが、しかし、民主党政権全体の成果で考えると、このまま政権を任しておいて良いはずはありません。
Although Prime Minister present Noda reforms himself and being somehow tackled positively in respect of defense and a nuclear power plant (electric power), however if it thinks with the result of the whole Democratic Party Administration, political power is not left as it is. 

来年の春くらいをめどに少し国民も原発反対熱や、尖閣諸島問題の道筋が見えてきたところで総選挙になることが私自身は、望ましいと考えますが、早ければ年内、あるいは年明け早々などになる可能性があります。
 I think that it is desirable to become a general election in the place where people have had nuclear power plant opposite heat and a route of the Senkaku Islands problem visible to the prospect in the spring of next year as for myself, if early -- the period before the year end or early next year -- the beginning etc. may come. 

その際には、次もまた民主党政権に、あるいは代わり映えのしない自民党政権に簡単に票を投じないように熟考しなくてはなりません。
To the Liberal Democratic Party Administration which neither the Democratic Party Administration nor becoming better for the change also makes the next in that case, the people have to consider carefully so that a vote may not be cast simply. 

まずは、これからの東シナ海における覇権争い、そして中国の台頭に備え、真正保守であること、そして平成の長く続く不況に対して日本の明るい未来を提示できる経済に精通した政党であること。
It is the political party well versed in the economy which prepares for the hegemony argument in the future East China Sea, and Chinese rise, and can, first of all, present the bright future of Japan to that it is genuine maintenance and the depression which continues for a long time. 

少なくともこの2大要件は満たさないといけないと考えます。
I think at least that this 2 outline affair must be fulfilled. 

あくまで私見ではありますが、日本人の考えの元にある判断力、そしてこの島国にあって先を見通す情報力を駆使して、最善の決断をしなくてはなりません。
Although it is a personal opinion to the last, you have to make the best decision, making full use of the judgment in the origin of a Japanese idea, and the information power which is in this island country and foresees the point. 

未来への責任は、私たち選挙権のある大人に委ねられています。
The responsibility for the future is left to the adult with us the suffrages.

この未来に対する責任を持つ大人の一人として迷うことなく、国益を優先する政党及び人物を選出し、応援していきたいと思います。
I  would like to elect and aid the political party and person who give priority to national interest, without wavering as one of adults with the responsibility for this future. 



追伸:翻訳ミスがあるかと思われますが、現時点での理解力のためとご容赦下さい。
あくまでチャレンジです^^








2012年6月10日日曜日

40代が死なないために

40代が死なないために。
なんてちょっと大げさな?タイトルにしてみました。

いや、なっちゃったんですね。

自分のこととか、周りの人のこととかいろいろ思うことがあって・・・。
結局、死なないように(自殺しないように)するにはざっくり言ってどうすればよいのか。やっぱり、「個性をつぶさない」ってことなのかな、って、思ったりしたんです。

本当に痛々しいことが今の世の中、多いんですよ。
ちょっとした行き違いなんかもあってね。

企業も政府も個人もどんな団体でも、今の世の中,平成不況が長引くなか、いよいよひずみがのしかかってきて、皆、余裕がないんですよ。

だから仕事したり、あるいは求職活動したりしても重箱の隅をつつくようなことでね、自分の価値が品定めされる。ちょっとした自分のミスや、ちょっとしたことでもAll or Nothingになって追いつめられたりしてしまうことも・・・。

企業はそこそこ利益を得ていても戦略に沿わない社員やターゲットはばさっと切り捨てていく。そんな中で何をするにも自信をなくしていく人が後を絶たない。また人間関係にも余裕がなくなってなかなか本音をぶつけ合ったりする機会にも恵まれない。

誰も自分が損したくはないんだ。
facebookやtwitter、おせっかいなソーシャルが幅を利かせるなか、一歩、間違ったら友人や知人を失ったり「あの人はこんな人だ」ってレッテル張られたりすることも恐いんだ。

だから、自分の安全圏を守ろうとする。
自分の守備範囲のこと以外はしたくないんだ。

何が言いたいかって。
やっぱりそりゃ、人には愛された方がいいし、人間関係もうまくいった方がいいけれど、それだけを考えてちゃダメだな、やっぱ。
捨て身になって生きられない。

個性を潰して生きてくって選択肢を選んでいる人も多いと思うけど、最後は中庸を取ろうとして何も得られない人生を歩んでいくことになるんだよ。
そんなことがようやくこの歳になって40代も半ばを迎えて分かるようになったきたんだ。


結局は、自分を助くる者は自分でしかない。

自分の個性が最後はきっと大きな花を咲かせるんだ。

だから自己卑下、自己憐憫は卒業して前を向いて歩いていかないといけない。

自分の個性こそが自分が何たるかを教えてくれて、自分がこの世に生まれてきた意味を教えてくれるものなんだ。

だからね、遅すぎたと思うことなく、今からでも自分の個性と向き合って(主に長所ね)、自分自身の花を咲かせようと思うこと。信念にすることだな。

もっと面白い人間になろう、と私も今日から思ってみることにしたから。
自分も他の人も、自分だけの面白い生き方見つけられたらいいね!

まだまだ未完成な自分が死なないように、この世に地に足をつけていきるようにするための方法。個性を生きるってこと。

自分の個性をきちんと生きた時に、必ずやこの人生の回答を得られると信じて。

誰も本当の自信を持っている人はそう多くはないからね。

自分を励ましながら、この不確実な時代を生きていこうよ。


2012年6月4日月曜日

2012年6月3日日曜日

シンプルに言ってみた方が良い映画『ファイナルジャッジメント』公開

幸福の科学出版の「ファイナルジャッジメント」(配給:日活)が昨日から公開されたが、それに呼応するようにNHK「ETV特集」でも天安門事件を生きた詩人のドキュメンタリーが放映されている。「母の胎内に戻るように私は眠る。母の胎内にいた時は監視されていなかったから…」
映画は爽やかな心地よさと切なさ、儚さを感じさせてくれる。
私は友の使命のために自分の生命をなげうった男が天使となって彼の活躍を隣で見るシーンが一番好きです。これ迄の概念を取っ払い日本人全員が、この国難に立ち上げるために見てほしい必見です!http://www.fj2012.com/

2012年5月6日日曜日

民主党政権にみる天変地異からの脱出を!

夜、自宅に戻り、テレビをつけてみると竜巻が発生のため、茨城で30棟もの家屋が倒壊になったこと、死傷者が50名も出たことが分かりました。

日本で被害が出る程の竜巻が起きるのは珍しいことと思います。
しかも関東圏だけではなく、わたしの実家のある四国・徳島でも1センチ周囲程の雹(氷の塊)が降ったそうです。「全国区で」ということになります。

先の雹(氷)を見た直後に書いたブログと重なる内容にはなりますが、やはりこの問題、私は無関心でいることが出来ません。

なぜなら、神々というのは気候を自由に操ることが出来る存在であると伺っているのです。中東のアラーやジーザス、日本神道の神々も。その御技を天候を操ることでもって神の威光(神の意志)というものを地上のものを伝えてこられたのです。

であるならば、私たちはもっと神の意志、神の望まれる光の方向に気づかなくてはならないのではいでしょうか。天変地異は明らかに天意のはずです。時は、東日本大震災の翌年、左翼政権とそれを支持する環境左派の人々によって全原発が停止された翌日に起きた出来事。

国体が誤った方向にあるのなら、善人の上にも悪人の上にも等しく、天変地異という形でその御意向を、お姿をお現しになるのではないでしょうか。

この状況が続けば原発停止の挙げ句、今夏は猛暑で生命を断つ方も現れるでしょう。また、人命はもちろんのこと、日本の中小企業をはじめとする企業への打撃は言うまでもありません。また世界で最も高い技術と、世界が認めた日本の原子力技術を継承することができず、第三国などの海外へ輸出することが出来なければ日本の経済的損失のみならず、海外の人々にとっても電気を供給する、という貢献を出来ずに終わってしまうかもしれないのです。

代替エネルギーへの移行はまだまだ諸手を挙げて喜べる程、簡単なことではありません。また、日本の原発が停止する一報で、万が一、北朝鮮が核開発がうまく行って日本に弾道ミサイルを打ちこんで来る、というようなことでもあれば、原発さえ稼働していれば日本は、報復、いや先制攻撃(どちらも穏やかではありませんね)、抑止力としての核を開発することさえできたのです。

しかし、その道は断たれたことを日本は発信したことで,世界の見る目はどう変わるか分かりません。まさしく猛獣の中に解き放たれたウサギか鹿のようなそんざに見えるのではないでしょうか?(なぜならアメリカも中国との協調路線を重視しており、アジア地域からその防衛戦力をひいていっていますよね?)

そんなアジアの状況の中、日本は自主防衛こそが自らを安全にこの国家を運営していく道なのです。

まさしくその矢先のことです。

よくよく、国家運営の責任者として民主党政権には考えて頂きたいと思います。
次々に原発を停止し、国体を弱体化させているという罪を、この国の守り神である神々はどうみているのか。神の警告として今日のことは受けとめよう、この小さな海洋国家に、左派政権を誕生させた国民の悲劇は自ら受けとめ、この状況を打破するその一歩を今日も明日も刻んでいかなくてはならない。

その思いを多くの方々と共有していきたく思います。

ついに日本の神々の鉄槌が下されたか

今、まさに出かけんとしていた矢先、ベランダで固い物があたる物音が。。
目をやるとそこには雨の音に混じってかつて見たこともないような大きな白い塊、氷が幾重にも重なって振ってきているのだ。


「こんなの見た事ない!」そう、45年生きてきてこんなに大きな氷の塊を見たのは初めてだ。それも何というか、白い大きな結晶はまるで地上で細々としたことで煩い生きる人間をあざ笑うかのように、まるでこの世を浄化させんとばかりにむち打つように強く、勇ましく降りしきってくるのだ。

ベランダに打ち付ける氷に矢も盾もいられず、一度はベランダの戸をきっちりとしめ、冷静さを取り戻そうと自室のパソコンに向ったのだが、この状態を収めておきたいとカメラを構えた。なかなかうまく映すことができなかったが、10分程して雨音がやみ、氷がみるみるうちにさーっと小ぶりの雨へと変わっていった。直後、集合住宅の前の通路や裏手の中庭で子供が泣き叫んだり、町内会のお世話役の方が声をかけて回っている声が響いてきた。


外階段を下りて駐車場に目をやればついさっきまで穏やかな光と風を浴びて美しく照り返していた新緑がそこいらじゅうに葉を撒きちらし、まるで台風の後のような光景になっている。テレビはこの間、緊急臨時ニュースになるようなこともなくあくまで、栃木で死者がでたこと、茨城で30棟が東海したことなどがテロップで流れていた。

私は、内心この状況に焦っていた。
ほんとうにこれで終わることができるのか。なぜ、みんなこんな恐ろしい光景を前に、これが日本神道の神の怒りなのだと感じとることができないのか!?
「これは当たり前のことじゃない!」わたしの心はつぶやいている。

日本にはつい昨年、東北大地震が起き1万人近い死者、行方不明者を出し、何万人もの人が被災者となったが、左翼政権が続く中、これで終わったとは決していえないだろう。

石原慎太郎都知事が、先の件を「天罰だ」と発言したらたちまち、バッシングにあい、訂正せざるをえなくなったが。それでもこの神の国は、地上で住まう人間がこの神の国、日本に信仰を取り戻し、国土を守る政権を奪取しない限りはこのような突然の雨風、氷、地震などを使って何らかの人間への気づきのメッセージを与えようとされるのではないだろうか。

私は身をもってそうした恐さを実感することがある。
自分自身への戒めでもあるが、自然の脅威は時に奢り高ぶる人間への警告へと変わることがあるのだ。

神社へ参るのも良いだろう。時には心を静めて柔らかな心を取り戻し、真なる自己との対話、心で繋がる仏神との対話を試みるもよいだろう。いずれにしろ何らかの形で、この国の人々は、これまでとは違うステージに一歩を踏み出さなくてはいけないのだ。変わらなくてはならないことがあるのだ。

来月は、宗教法人幸福の科学から「ファイナル・ジャッジメント」と題する映画が公開になるが、実際、人間は神に試しを与え、真実の自己と対面させるため時に厳しい選択を迫ることがある。

私自身も多分に漏れず、試されている一人である。
この現実を、今日の天の怒りのような天候を受けとめ、心を新たに引き締めていきたい。

今日GWの最後、今後の日本を占う意味でも大きな衝撃を与えた天変地異のひとつであったように思う。一人ひとりの心の素直さ、善なる心が試されている。

2012年5月4日金曜日

仏・サルコジ大統領VSオランド候補討論に観る日本のゆくえ

昨日あたりから日本でもフランス大統領候補の討論会の様子が断片的に紹介されている。

オランド候補は最大野党社会党の党首でいわば左派にあたるわけだが主張が面白い。 

ユーロ危機等の経済問題を抱えるサルコジ大統領が緊縮財政による財政再建を訴えれば、左派で雇用対策や社会保障の充実を主張するオランド候補が「緊縮財政だけでは景気は回復することはできない。成長戦略を盛り込むべきだ」と反論する。確かに西側のコンサバティブの経済評論家や保守政治家層ならいいそうな発言だが、緊縮財政花盛りのヨーロッパで、しかも、左派の党首がそうした発言をするのは少し面白い。

また、フランスといえば原発を120機も保有しているといわれるが、やはり原発は国の財産なのだ。

サルコジ大統領は、最後懸命に原発の必要性を訴え、古くなった原発も『フランスの原発は最高水準にある。日本の福島は地震ではなく、津波によって冷却装置が直撃されたのであって原発自体に問題があるわけではない。フランスでは津波が起こりようがない」と熱弁を振るった。この討論番組を一部報道した朝日では、古館伊知郎アナによって、「勝手なことばかりお互いに言ってる感じがする。福島の原発も地震によって亀裂が入った可能性があることが噂されている」と、一蹴した。

しかし、日本のマスコミはこぞって原発反対を訴え、その理由をさもありなんとくっつけてくるのだが、まっこうから原発を国にとって必要なエネルギーとして持論を力強く展開したサルコジ大統領の熱意をみならってもらいたいとさえ思う。何ら論理性を持って実証されていない『原発=危険』の図式を繰り返し、国民の不安を煽るだけで何ら国益に資することのない不毛な発信といえるのだ。

左派の社会党でも国家の実益を考え、「緊縮財政だけでは国が富むことはない」と積極的に成長戦略を取り入れようとするフランス次期大統領候補。『フランスの原発技術は最高峰だ』として国家の基幹産業を守ろうとする現役フランス大統領。

どちらも各政策においては違った顔を持つが、それでも日本のようなどちらともつかないような政策論争、主体が何なのかさえ分からない日本の政争の愚とは明らかに違う。
日本のマスコミも政治家も虚心坦懐に日本の未来にとって何が国益に叶うことなのか、何を守れば政治家として、日本のマスコミとして使命を果たしたといえるか、もう一度、真摯に問うべきではないだろうか。

今、日本の産業問題も原発を含め、もう一歩踏み込んだ国家議論が必要ではないか。日本の、日本人による成熟した、国益についての発展的議論を切望するものである。

2012年4月29日日曜日

今あえて観た、幸福の科学対オウム真理教「朝まで生テレビ」

今から20年程前になる幸福の科学対オウム真理教の「朝まで生テレビ」。

このときに麻原教祖が出てきていたこと。教祖は出席せず、インテリ幹部によるやや難解な解説が共感を得られるところまでいかなった幸福の科学に対して、オウム真理教側が教団PRビデオやダライラマの映像を流し、原始仏教と何ら変わらないことを強調したことでまんまと彼らのペースでオウムにとって良い宣伝になってしまった。

当時の論客で今もってテレビ番組の中心にいる人はほとんどいないが、このとき、オウム真理教が危険な殺人集団であることを見抜けず、(まだ殺人事件は起きていなかったかもしれないが、着々と地下鉄サリン事件の計画は練られ、サティアンではマインドコントロール、拉致監禁が行われていた)テレビ番組で堂々と彼らの思想、言説を報道するなどまったく持って由々しきことであり、悔やみきれない思いがする。

もう少し事前にまともな調査を当時の朝日は出来なかったのか。
この番組を通して「幸福の科学よりもオウムが優勢」などと当時、論評されることが多くなっていたが、いずれにしてもこの番組では両者の価値の違い、本質の相違を何ら明らかにさせることが出来ず、当時の若者や社会に対して何ら益することのない無駄な討論番組に化けていたのではないだろうか。

それに対してはやはり論客がまだまだ正しく宗教を見定める、宗教に関する知見が足りないと言わざるを得ない。知識、論理、情熱、何らそうした意欲を感じさせることのない論客がでて新宗教の何を明かせるというのだろうか。この人選自体に疑問を感じ得ないのだが、宗教に素人のマスコミが宗教を裁く、あるいは査定する、ということの恐ろしさ、難しさをこの番組は物語っている。

今後もこうした過ちを砂鉄をマスコミが踏まないように、いや踏ませないためにも、日本人がもう少し新々宗教に対する知見を深めて、本物の宗教、社会の幸福化に寄与する宗教を見抜く必要があるのではないか。

この当時、幸福の科学を学び、オウム真理教というとてつもない幻想殺戮集団によって、友人を殺された当時の若者として今もって思い返せば涙を禁じ得ない。

宗教は人間を立ち直らせ更生させる力を持ちえるが、翻って悪魔にも身を売る危険性をはらんでいる一面もある。日本人は宗教アレルギーでもあると言われているが、アレルギーを持つだけでは宗教の善悪についても判断することができず、そのまま蓋を閉じたままになってしまうのだ。私たち一人ひとりが宗教や、心の世界についてもっともっと虚心坦懐に学ぶ必要があるのではないのか。そしてそれが今を生きる私たちの使命ではないのか。少なくともあれから20年、私は生きてきて、そのことを忘れずに使命を果たしていきたいと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=QhetLKdjHeQ





中国人権問題と世界のバランス

中国の強制妊娠中絶や人権侵害について広く世界に訴えていた人権活動家、陳光誠氏。救出されるも支援者の女性活動家が中国当局に拘束される。米中間で陳氏の扱いについては交渉中とされるも米国も人権侵害問題について経済バランス、軍事バランスの問題から一歩抜きん出て中国をリードすることが難しくなっているのが現状だろう。この状況は、対日本と中国のバランスにおいても言える。女性活動家は、日本政府に支援の生命を求めているが、日本政府は動いている様子はない。日本がいつこの問題に対してリーダーシップを取れるようになるのか?現政権では難しい。次期政権は、真正保守であり、他国の人権侵害状況に対してきちんとメッセージを発することのできる国家であってほしい。      http://jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012042800203

2012年4月25日水曜日

痛快!石原都知事の占領憲法無効破棄論☆

いやあ、実にyoutubeで全編視聴するまで知らなかった。
こういうシナリオであの、尖閣諸島購入の話がでたんですな。
実に石原さんらしいというか、実にまっとうな保守政治家ですね。

これはもう中国に命を狙われようとも日本の右翼は命がけで石原さんを守ればいいんですよ。日本で今、最も大切なことを大切な局面でおつしゃってくれたと思いますよ。
四の五の言わずに『いかに地球上における日本が地政学的に不利な地域であるか』って、つまりは、強権政治の支那と狂った北朝鮮に囲まれ、最北はロシアだと。

いかに日本国憲法の前文「日本国民は、(途中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の前提が成り立たない、幻想に過ぎない状況であるかを説いたのだ。
これははっきりさせるべきことだった。
アメリカがどうこう言えることではないんだ。むしろ、これをはっきりと言える日本人をアメリカは待っていたのかもしれない。


これまでの日本が中国や韓国に遠慮し、また憲法の縛りでどれだけ自国民を蔑み、自信を喪失させてきたことか。日本政府が外交上の手前や平和憲法の建前で日本国の純粋な利益に言及した発言を歴々の内閣が避けてきた。そのつけを今、石原氏が晩節の大仕事としてナタを振るっているのではなか。


石原氏は本気だと思う。
これに日本政府は民主党政権は応えられるのか?


氏がワシントンで会見した直後は威勢のいいことを内閣官房長官もいっていたが、氏が野田総理が米国に出発前に面会を希望しているがそれも調整が難航しているようだ。


野田政権はやはり嘘つき政権と揶揄されても仕方ない。中国の顔色ばかりを伺っている。
結局は、責任を取るのは石原さんであり、日本国民の善意の結集でしかないのではないだろうか。


ともかく石原さんのワシントン会見は日本人全員が視聴すべき内容だと思う。
戦後67年日本の在り方を問い直す良いきっかけになってくれることを祈って。


http://www.youtube.com/watch?v=fdcTgqkkJFE&feature=related

2012年4月14日土曜日

自由への扉、エクソシスト

今回のBlogのタイトルを何にすべきか少々、悩みました。

心理学研究では新米の我が身ではありますが、過去、我家族に起きたことや過去の霊的体験から私には察しがついていることが数多くあります。この手のことについては…。

つまり何が言いたいかというと、ここ数日、テレビニュースを賑わせている「てんかん症状について」です。重大な事件を引き起こしているこの問題ですが、心理学的見地からも宗教的見地からも言える事があります(新米の身ですみません)。それは、てんかん症状とは、「必ず何かしらの霊的影響」を受けているということです。

察しの良い方であればお気づきのことと思いますが、泡を吹いて白目を剥く等のこの症状は、ずばり悪霊の影響を受けているということです。主に海外ではキリスト教圏であれば、エクソシストが活躍する場面でもあります。日本の場合は、あそこまで激しくなくても日常の中に闇が潜んで横行しているケースが見られます。もちろんその場合、本人も家族も霊的存在に対して無自覚で何ら対策が出来ていないことがほとんどだと思われますが。

原因として考えられるのは、当人の霊的な感応力にもあるとも言えますが、周囲(主に家族や親戚など近い存在)に悪霊が好むような家庭不和が存在したり、成仏できずに家族の周りを悪霊がうろちょろしているケースなどが考えられます。それ以外にも場所による縁故霊や、本人の趣味趣向によって引き寄せられる霊的存在もあるかと思いますが。

ただ言えることは、かんてん症状などに見舞われるきっかけとして、家族か、本人のいずれかが問題を抱えたケースが多いという事です。家族の中で悪霊の影響を受けた場合は、最も年下の人や、まだ社会的に確立されていない、家族の中でも弱い人のところに出てくるパターンが多いということなのです。

かくいうそのケースは、我家にも起きたことではありました。

家族の中で一番弱い存在である末娘の妹のところに考えられないような、本人とは無関係に「てんかん症状」として現れ、あるときは目に見えない圧力(霊的作用)による事故という形で現象が現れました。彼女が生まれてからこの方、家庭は平穏であったことはなかったのです。様々な身体的影響がこの妹には出始めました。ここでは詳細は書ききれないため割愛させて頂きますが…。


結局、何によって治ったかというと、最後は家族の一人が光を強くしたという事から脱出のきっかけを掴んだのです。正しい宗教(スピリチャリズム)に導かれたことで、闇に光があたり、本当の神の子としての自分に気づき、仏性を発見したことからです。そのことで暗い悪影響を与える霊的存在の姿があっという間に消えていったのです。

良いスピリチャリズムは数多く世の中に存在しているかと思いますが、これはなかなか得ようとして得られるものではないのかもしれません。ある種の試練を通過して、まるで約束された修行期間の終わりを告げるがごとく、ある日突然にその救いは現れるからです。

私たち家族が経験したことをここにすべて記す程のスペースはありませんが、このてんかんという症状(病気)必ずや治せる、治るものと私は考えます。

それにはまず、本人と家族が人間が霊的存在であることに気づくことが入り口だと言えるでしょう。世の中には怪しげなスピリチャリズムや宗教が存在しているとも思いますが、それでも正しい自己を求める心(救道心)、本来のハイヤースピリット(守護霊や高級霊とも言われる存在)に向き合う力があれば必ずそのきっかけは掴めると思います。

どうかこうした病気の方々には、単に病院に行くだけでなく宗教書や哲学書、良書をたくさん読んで、悪霊に負けないだけの光の供給を受けて頂きたいと思います。そしてよく調べて見て下さい。この病気の原因がどこにあるかを。負のスパイラルを断ち切るきっかけが必ず与えられることを信じて人任せにせず、オープンな形で救いを求めることから逃げないで頂きたいと思います。

また私から折りをみて、病気から開放されるためのスピリチャリズムについて、自由への扉を叩けるような日記や論文を書いていきたいと思います。どうぞ乞うご期待下さい。

2012年4月13日金曜日

在日コリアンに見た、我々日本人の生きる道


本日も、いつものごとく食べ物系取材であちらこちらを移動。
時間が余った夕方の17時、なぜか気になった宮崎台のある焼肉へふらりと立寄り。
いつものパターンなのだが、暇そうな店主を見つけるとついつい世間話を。。。

焼肉の味はともかくも超安くてうんちくを語る面白い店主に愛情を込めて「日本の方ですか?韓国の方なんですか?」と最後に尋ねてみた。一瞬たじろいた様子だったが、「韓国」と小さくつぶやいた。「今は子供たちのために帰化してるけど、昔は差別を受けて住民票ももらえなかった」とつぶやくように話始めた。

「だから焼肉やにしかなれなかったんですよ。会社には就職できなかった」

「そうなの?そんなに差別は酷かった?」と思わずやや同情的な気分になって聞き返した。

「今は知らないけど自分たちの時代は、やくざになるか、パチンコやになるか焼肉やになるかしかなかった。好きでやってるんじゃないんだよ。別に独立した訳じゃない。こんな職業しかなかったんだから」

確かに、私の知り合いの在日の男性も高利貸し屋だったし、仕事を一回だけもらった在日の男性もパチンコや。別に韓国人の友人が特に多いわけじゃないけど、高校時代の親友も在日出身の韓国系アメリカ人と結婚したっけな。

昔から日本の女の子が在日韓国人と結婚すると周りが反対する、差別するという話はよく聞いていたが、その差別がどこから来るものなのか、私は正直、自分の親の世代くらいまでの感覚をよく知らない。

一説によると、「その昔、キムチ臭くて韓国人は嫌われた」とか。いやはや、「犬肉を食べる文化」だからとか。それとも言語の問題か、いややっぱり家族意識、韓国人意識が強すぎて向こうに排他的なところがあるから日本人が毛嫌いしたのではないか、とか。

過去のささやかなインプットをたぐり寄せるように思い起こしてはみたものの、実際の決めてには欠いてしまう。ただその中でも我が母親がよく言っていたのは、北の朝鮮総連の嘘だ。日本人妻を拉致するように「北朝鮮はこの世の天国」だと40年程前に帰還事業で多くの日本人が連れ帰られ、その末路については皆の知るところだ。

思想における間違い。自由を奪われ北朝鮮という全体主義の籠の中で生きることを強いられる女性たち。二度とは戻って来られない独裁国家。その真実がある一定の月日の中で明かされていったとき言い得ぬ恐怖と国家差別へと向ったとなると理解できないでもない。そして日本人の中に、朝鮮半島や中国へ回帰しようとする人たちが日本社会の中枢にいる事を知ったとき、それは差別的に「在日」と呼んでネトウヨや、いわゆる保守派が毛嫌いする理由になるのは至極当然のことだ。

しかし、今日に至るまで、頑に日本に帰化しない在日韓国人がおり、北のスパイ活動を助けるべくマスコミに就職する在日何世かが表れ、またその人たちを差別から救うという名目で、在日外国人をある一定の人数雇う、という恐るべし就職協定を掲げる大手マスゴミの存在。あまりにも先の韓国人の焼肉やと話した内容が荒唐無稽のようにも聞こえてくるのだが。

それでも今日、私が焼肉やの主人と接して痛感したことは在日韓国人として生きた彼らの強さ、たくましさだ。数十年前とはいえ、在日として差別を受けたからこそ(帰化していないのだから当然なのだが)、それをバネにアメリカに渡り成功を掴んだ人が在日外国人には多いのだ。むろんどういう形で名を成したかはここではあえて触れないが。その代表格はソフトバンクの孫正義氏だろう。

個人的好き嫌いはともかくとして、彼が平凡な日本人として生まれていたとしたら、日本国内だけで彼が世間を見ていたとしたら、決して今のような成功はしなかったろう。

裕福な家庭に育つことは決して人間の成功に役に立つとは限らない。どんなに教育の機会を与えられたとしても自分自身が何か激しいハングリー精神を持って世界に飛びださなくては抜きん出た成功等収めることはできない。

でなければ、日本国内にてあの焼肉やのおじさんのように仕方なく焼肉やをやるしかないのである。いや、今これだけグローバル社会と言われても自ら求めて海外に活路を見出そうとしなければ、日本人は世界に取り残され、最終的に最も暗いシナリオの話をすれば朝鮮半島か中国大陸に日本国が吸収されてしまう、という未来が起こりうるだろう。

帰化しない限りは職業選択の自由がないという事実を受け止め、チャンスを求め海外へ渡るという強さは今の日本で平々凡々と暮らしていては到底持てそうにもない根性ではあるが、今後自分にも他の日本人にも期待したい。

ここに来て自分も、他の日本人も、自らの弱みに気づいて折り返すことが出来るのではないだろうか。

グローバル化や技術立国が韓国やその他のアジア地域の看板とならぬように我々日本人は、今一度激しい渇望を持って頑張らなくてはならない。きっと今回の北のミサイル実験になされるがままが嫌なのであれば自ら防衛という道を歩まねばならぬように、ここに来て「やむにやまれぬ大和魂」のようにふつふつと蘇りたい。

2012年4月5日木曜日

生の厳しさと魂の高貴さ(3月27日産經新聞コラムより一部抜粋)

「聖なるものを求めて」というサブタイトルにしたくなりました。
あまりこの歳で年寄りぶった言い方はしたくありませんが、宗教的なる魂からでしょうか、やはりこの手の話には感銘を受けます。10日程前に遡りますが、愛読している?産経新聞の一面を飾る曽野綾子さんのコラムです。いつもながらの「小さな親切、大きなお世話」のメインタイトルに、この日のお題は、「生の厳しさと魂の高貴さ」です。
半分程読み進めてみると、わたし自身のカトリックにおける宗教的体験と重なり、というよりもわたしの友人などがもっとストレートにそのことを経験しているのですが、修道院での生活、取分け昔の修道院の厳しさに触れ以下のようなことが書かれていました。

中略 1962年に開かれた第二バチカン公会議の結果、開かれた教会が望まれるようになり、修道院も閉鎖性を取り除いて現世と深く関わるようになった。

すると夜明け前の起床、カーテンで仕切られただけの大部屋のベッド、厳しい沈黙の規制、といった束縛もなくなってきた。昔のように目上の絶対的な命令で働くのではなく、修道者の個人の希望をかなえるものとされてきた。

修道会によって会則の中身も違うのだが、中には女子修道院が、OLが集まって暮らすアパートと変わらない自由を持つところも出てきた。すると、その頃から修道院の志願者も減ってきたのである。

19世紀のフランスなどの修道会は、アフリカ大陸布教を目指してほとんど失敗し、宣教師たちは次々と殺された。その時代がいいといっているのではない。しかし、ヨーロッパの宣教師がアフリカで多く殺されたときほど、アフリカ宣教の志願者が多かった時代はなかったという。

誰も死んではいけないのだが、自ら死を覚悟して働くような要素がまったくない生ぬるい事業は、一方で必ず衰退する。不思議な成り行きである。(最後の2行はともかく)

このあたりがわたしに取っては心に刺さる、作家、曽野綾子の本流ともいえる文面です。

これ以上の言葉は必要ありませんが、現代人にとっての厳しさとは、何でしょうか。たまには、自分にとって不自由であっても望んで律する場所に行き、自分を見つめ直す時間を取るということは、すべての人にとって必要な事なのかもしれません。

決して修道女や宣教師でなくても、わずかな時間のささやかな日常の中で。聖なる時間、聖なる義務というものを人間として負いたいものだと思います。

3.31デモ今さらですが…。

新年度の始まる直前、消費税増税法案を巡って、「1万人デモ増税反対国民集会」に行ってまりました。天候の悪い中、結局集まったのは、約3千人でしたが、この人たちの熱意は本物で、一歩行動を起こした、自分たちの念いを意思表示したということは今後の政治活動に弾みとなり、大きなうねりになっていくのではないでしょうか。ほんとあの豪雨の中、ハンパじゃないっす。