日本の国難を憂える一市民です。 仕事は執筆業、撮影を生業にしています。 まともなことをまともにいえる(これは保守政権への奪還を目指すものです)日本にしていきたいですね。 マスコミによる国民コントロール、売国奴から日本を守りたい!その一心でブログを書き綴ります。夢のある未来を築いていきましょう!
2012年7月29日日曜日
私が体験した少林寺拳法といじめへの対処法
昨今、いじめ問題がニュース等で取りあげられることが多い。
この件、かつていじめに遭いお子さんを亡くされたご両親を中心に発足されたNPOの活動などもあって、目をやればあちらこちらに救いのきっかけとなるチャンスが広がっているようにも思う。
ただ、問題解決にとって深刻なのは、当事者であるお子さん自身が学校や家庭外で起きているいじめの実態をご両親や、身近な大人に相談できないことであると思う。その子供の心理や、想像するに難くないが、それでも勇気を持って、誰かに自分の本心を子供たちは明かしてほしいと思う。
翻って私の子供時代を振り返ってみると、いじめというような陰湿なものではなかったが、時に高度経済成長期の日本。私は、地元で有名な自営業で成功していた父を持っていたため、サラリーマン家庭の一部の子供から嫉妬を受け、あらぬ中傷を受けるようなことはままあった。本人とは無関係の話ではあるが、それでも私は、何となく相手の事情や、自分の家庭環境の置かれた事情を客観的に把握していたため、あまり自分自身のこととして深く悩むことなく、かえって様々なことで発奮材料にすることになった。
ただ中学生になる頃、私の家の近所に住む同級生の女の子が「ガリ勉」ということで付き合いが悪いということでクラス全員からしかとを受けるというようないじめ問題が発生した。当時、私はその彼女の良いところも(努力家で一途に親の期待に応えようとしている姿)知っていたので、私は、一人でホームルームに根拠のないいじめをやめるよう訴えかけたことがある。
その時のクラス担任は、後日家庭訪問の際に、私が正義漢でいじめを止めるようクラスメートに訴えたりするようなことは慎むように。自分が今度、いじめのターゲットにされますよ、と私の両親に話して帰ったというのだ。
私は、その教師の言動に日本のサラリーマン教師の実態をみる思いがして、初めて受ける”大人社会の洗礼”にあったような気がしたものだ。
その子は翌年、父親の仕事の都合でクラスメートには何も言わずに転校。私自身、特に親しかったという程ではないので、その子の行く末やその後、目指していた東京大学に行ったかどうかは知らない(多分、途中で挫折したのではないかと思う)。
ただ、当時は一時的に子供たちの価値観に揺らぎを与え、「相手を理解できない」ということからいじめに発展したのだと思うが、それでも当時はよかった。相手に対しても「あなたのこういうところが嫌いだ」(自分の殻に閉じこもって勉強ばかりしている)など、相手に対して真っ向から向かい合い話す子供もいたからだ。
ところが今のいじめの本質はまったく違う。恐喝、脅し、根拠のない相手への誹謗中傷、自分のストレスのはけ口として、ネットを通して、リアルで相手を恫喝し、死にまで追い込む。それでも尚、次のターゲットを探し求め続けるのだという。
いじめられている子は、ターゲットにされやすい側面を持っていたに過ぎない。明らかに犯罪性を帯びた、いじめを行った加害者に問題があるのだ。もっと言えば、今起きていることは「霊障問題」であり、そうした子供を生み出した”親の問題”であり、大人のつくり出した歪んだ社会に原因があるのだ。
それを認めず、「自分の子供は悪くない」として加害者の権利を主張する親まで出てくるのだから、どこまでいっても命の大切さを子供に言って聞かせてあげることはできない、反省ができない親子になってしまうのだ。
私自身は、いずれこの問題に自分の人生をかけて取り組みたいと思っている。私は、この愛する大和の国に生まれた子供たちを守りたい,その一心だけだ。
そして、いじめられている子供たちに、せめてひとつだけでもメッセージを届けられるとしたならば、お願いだから約束してほしい。自分の悩みを誰かに話して、SOSのサインをだして下さいということを。そして自分の命を小さい存在だと思ってほしくない。私が10代の悩み多き頃、自分に対しても声をかけるとするならば、そんな経験をした、「あなたは希少な存在だ」ということだから。
私自身も自分の将来に絶望し、また無価値な人間であるかのような錯覚をし、(他の誰でもない自分自身で)自殺未遂を繰り返した人間です。(そんな10代を過ごした人間だからこそ、人の痛みは人一倍,敏感になれるのかもしれませんが…。)
それでも必ず、大人は何らかの助け船をだそうとしてくれています。
そして私が自分の肉体と向き合い、嫌なことを忘れられたのは、父親のすすめで少林寺拳法始めたことによってだ。礼に始まり礼に終わるとされる武道、少林寺拳法を始めとする剣道や空手等の武道はカラダを鍛えるだけでなく、肉体に宿る”精神をも鍛えてくれた”。
そして自分のカラダに筋肉が付き始めてくると、明らかにそれは自分自身への「自信」として変わってくるのだ。若いときならなおさらだ。精神的につらい時程、肉体は鍛えていけば精神もそれに伴っていくということを覚えていてもらいたい。
特に、少林寺憲法などの武道は、他人がどうというよりも、護身術を正しく身に付けることで、無意識のうちに自分自身を守れる武器となり、相手への防御という対処法を身につけることで自信へと繋がる。
このブログをみてくれたお父さん、お母さんへ。
今の時代、どの子でもいじめに遭う可能性はあります。そしてお子さん自身もいじめる側に回る可能性があることも…。けれどそうした時こそ、色心不二で、カラダを鍛えれば精神も鍛えられるということを思い起こして下さい。真に強い人間は、守りに徹し、相手に暴力を許すことなく、自分への確信によって、相手につけいる隙を与えない人間にもなれる、そうした可能性を秘めているのです。
どうか機会があれば是非、大人も子供も武道を学び、自分の心とカラダを鍛えるチャンスを得てもらいたい、と強く願います。
自分の人生を見限らず、肉体が健康な内はいろいろな考え方や人を知り、さまざまな経験をしていくこと。そして、「自らを鍛え、自らを守る力を身につけていくこと」によって何かがきっと変わって来ると思います。いたずらに自分を傷つけずに、今できることから一歩を踏み出してみませんか。人間は必ず変われます。
今日よりは明日、明日よりは明後日。今よりも人生はきっと良くなる、と信じて。
http://page.freett.com/shourin/shoukaibun.htm
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。