2015年11月29日日曜日

言葉の死とコミュニケーションが生まれるとき

言葉=コミュニケーションでもないと思うのですが、言葉と仕事というべきか、仕事とコミュニケーションともいうべきか・・・。最近、気になる自分自身の課題ですね。たとえば、同じ方向性を持てなく持った者同士がコミュニケーションをとろうとしても、埋められない言葉の壁を感じるようになり、言葉そのものが本来の役割以上の意味を持たなくなる、つまり言葉の死というものを感じました。

どうしてこの相手との会話は自分の言霊がスムーズに出てこないのか。日が浅いというよりも、繋がりが薄いと感じる仕事関係者との間でのことですが、その相手との会話の状況をよく思い返して見ると、相手が結論ありきで会話のストーリーを進めていることに気づきました。つまりその相手にとって持っていきたい結論、会話の落とし所があるということですね。あるいは何か思い込みがある時とか・・・。その相手の思考を敏感に感じとってしまう自分がいて、素直に言葉がでなくなる、自分の言葉で話せなくなるんです。

それとは真逆に、ああ、なんと心地よく会話が進められる相手だろうか、と感じることもあります。人間には波長というものがあって、大抵のことはこの波長があう人との会話や、何か共通の体験ともいえるものがあってシンパシーを感じる部分があれば心地よいと感じるのではないでしょうか。だから滑らかに思考し、言葉がスムーズにでる。人間としての共感力もあると思いますが、私が最近体験した会話のスムーズなパターンは、お互いの苦労を想像し思いやれるような境遇を体験したときです。

どういったケースであれ、縁あって相対する相手を理解したい、仲良くなりたいと常々、思っている私ではありますが、それでもストーリーありきの計算づくめの相手との会話には自身の思考が停止してしまうような強い違和感が生まれます。こればっかりは仕方のないことなのかもしれなませんが、皆んなが仲良しこよしのお友達やおめでたい人ばかりではないし。けれど、そうなってくるとこの世の中、自分が相手に乗せられて騙されないようにしなくてはならないと窮屈に身構えた状況で、常に損得で会話を考えなくてはいけなくなってしまいます。

無論、言葉を司るライターを生業としている者としては、相手に屈しないぞ、という思いが本音であり、相手にコントロールされないように自分の頭と心を満足させられる会話の技術を磨いておきたいものだと思います。やや頑固ですけどね・・・^^。

自分の思いを正しく言語に乗せて、心と頭を一体化させること。そんなやりとりの先には、心地よい人間関係と目標の達成に向かわせるものがあると思います。

事を有利に進めたいがゆえに言葉を使う、会話を誘導することは、人間社会においては生きていく上で必要なことのかもしれませんが、残された貴重な人生、できるだけ言葉を飾らずに、素直な言葉を使って人との関係性を深めていきたいと願っています。


2015年11月17日火曜日

暴力に対して暴力では何も解決はしない

2001年の9.11から14年が過ぎたというのに益々テロの脅威は増し、サウジアラビアなどの一部の外交同盟国を除いては、中東全土を巻き込んでの欧米とのテロの戦いに入ってしまいました。

油の問題なのか、宗教の問題なのか、といえばそもそもはアメリカとイスラエルの癒着に始まる油の利権争いであり、これまで搾取され続けた西アジア、アラブ諸国の独立国家としての威信をかけた戦いだといえるでしょう。

つまり民族や宗教における同族による連帯を掲げて戦ってはいるものの、背景にあるのは、もうこれ以上、自分たちを支配下に置こうとする異教徒たち欧米列強(第二次世界大戦を彷彿とさせますが)の?思い通りにはさせないという強い抵抗とも言えるものです。

なので、フランスにおけるテロも残忍そのもので、決してテロ行為は許されざるものではありませんが、これに対してどう対処していくべきかは、報復合戦ではもうどこにも行き着かない、つまりは第二次世界対戦でアメリカが広島に原爆が落としたように、国を壊滅状態にまで落としいれないと決着がつかないところまで行くことが考えられるのです。

なんといったらよいのでしょう?

私一人の力で及ぶところでは全くないのでこうしてBlogにアップすることもためらわれる部分があるのですが、私は一人の人間としてこの承服できない行為に対してもある一定の理解と許しを与えられる人間でありたいと思うのです。

この残忍なテロ行為の連鎖、暴力を断ち切るためには今一度、人間の尊厳、本来の宗教の奥の奥にあるものを取り戻すべきだと思うのです。そして虚心坦懐に、平和な仏教国であり、森羅万象に神が宿ると考える神道の教えの中にこそ、イスラムとの共通点を見出し、救いの手を彼らにも差し出してよいのではないかと思うのです。

世界のあらゆる不条理に対して、全ての国の全ての人が同じ対応をとる必要はありません。「テロリストとは取引しない」それも正義でしょう。しかし、唯一の理解者が仲介役が現れることによってこの問題は解決の糸口が見出されると思うのです。

どうか日本の政治家も宗教家も民主主義国家という価値観を共有する国の同盟を尊重するだけでなく、相対するように見えるような相手(イスラム国)に対しても胸襟を開いて出来うる限りに善なる思いで対応していただきたい、と思います。なぜなら彼らの歴史において現在の行いに至るまでの理由がアメリカやヨーロッパの白人至上主義者たちにもあると考えられるからです。

過去に非があれば、それは虚心坦懐に認め、謝るべきでです。そして、どんな相手に対しても一理あると、許せる心で接しなければ未来は開けないものと思うのです。日本においては冷静な対応をとりつつ、あくまで公平な観点で、暴力だけでは解決しないことを双方に訴えて行くべきではないかと思います。

写真はアメリカの無人空爆によって負傷したナビラ・レフマンさん。「暴力に対する暴力では何も解決しない」と訴える。