「聖なるものを求めて」というサブタイトルにしたくなりました。
あまりこの歳で年寄りぶった言い方はしたくありませんが、宗教的なる魂からでしょうか、やはりこの手の話には感銘を受けます。10日程前に遡りますが、愛読している?産経新聞の一面を飾る曽野綾子さんのコラムです。いつもながらの「小さな親切、大きなお世話」のメインタイトルに、この日のお題は、「生の厳しさと魂の高貴さ」です。
半分程読み進めてみると、わたし自身のカトリックにおける宗教的体験と重なり、というよりもわたしの友人などがもっとストレートにそのことを経験しているのですが、修道院での生活、取分け昔の修道院の厳しさに触れ以下のようなことが書かれていました。
中略 1962年に開かれた第二バチカン公会議の結果、開かれた教会が望まれるようになり、修道院も閉鎖性を取り除いて現世と深く関わるようになった。
すると夜明け前の起床、カーテンで仕切られただけの大部屋のベッド、厳しい沈黙の規制、といった束縛もなくなってきた。昔のように目上の絶対的な命令で働くのではなく、修道者の個人の希望をかなえるものとされてきた。
修道会によって会則の中身も違うのだが、中には女子修道院が、OLが集まって暮らすアパートと変わらない自由を持つところも出てきた。すると、その頃から修道院の志願者も減ってきたのである。
19世紀のフランスなどの修道会は、アフリカ大陸布教を目指してほとんど失敗し、宣教師たちは次々と殺された。その時代がいいといっているのではない。しかし、ヨーロッパの宣教師がアフリカで多く殺されたときほど、アフリカ宣教の志願者が多かった時代はなかったという。
誰も死んではいけないのだが、自ら死を覚悟して働くような要素がまったくない生ぬるい事業は、一方で必ず衰退する。不思議な成り行きである。(最後の2行はともかく)
このあたりがわたしに取っては心に刺さる、作家、曽野綾子の本流ともいえる文面です。
これ以上の言葉は必要ありませんが、現代人にとっての厳しさとは、何でしょうか。たまには、自分にとって不自由であっても望んで律する場所に行き、自分を見つめ直す時間を取るということは、すべての人にとって必要な事なのかもしれません。
決して修道女や宣教師でなくても、わずかな時間のささやかな日常の中で。聖なる時間、聖なる義務というものを人間として負いたいものだと思います。
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