2009年9月25日金曜日

悲惨な話(八ッ場ダムとマスコミ)

 またしても書かざるを得ないのは八ッ場ダムのことだ。

感情論でジャーナリズムの端くれを語ってはいけないのは重々承知しているが、あまりにもひどい悲惨な話だ。

私が生まれたのは、昭和41年。ちょうど東京オリンピックが終わり、日本の繁栄を象徴するかのごとく建立された太陽の塔(大阪万博)を見た日の衝撃は今でもありありと覚えている。子供心にこの世界は未来への希望に満ち、繁栄の未来は約束されているのだよ、と、そんな暗示にかけられたようなまだ見ぬ近未来への希望を彷彿させてくれる象徴そのものだった。今日に繋がる豊かな時代の幕開けだった。

今は昔となったこの万博ブームも当時の日本が高度経済成長をたどる中、必然として現れたのものだった。当時は子供でこの社会の仕組みも経済もよく分からなかったが、ただ自営で金物工具店を営んでいた父の事業が大変な繁盛し、いつの間にか3階建てビルを自宅として持つようになったのがこの頃だった。

やがてバブルを迎える数年前、素人の経営でも儲かる時代は終わったと、これまで黒字経営をしていた中小企業や商店がバタバタと倒れ始めた時期が70年代代~80年代にかけて起きた。大手資本が台頭し始めた矢先だったのかもしれない。父は、既に経営者としてある程度成功していたが、その驕りが足元をすくわれる原因になった。やがて父の経営する金物工具店は、不渡りを出し倒産、一家離散の憂き目にあうことになった。私は高校を出て美大浪人生として東京で一人生活していた時のことだ。

ああ、そもそもはこんな話を書こうと思っていたのではない。われわれ40代になる世代の人間が歩んできた高度経済成長期のかすかな思い出を思い起こし、自民党政権時代の全盛期に思いをはせたいと思ったからだ。だって、ダム建設の問題(是非)は、半世紀にもわたり、豊かな生活を保障する代償である、かつては水資源の不足に苦しんでいた地域や首都圏に対する正当な公共事業でもあったのだ。今でこそ、ほとんど給水制限等は首都圏ではなくなったが、20年くらい前の東京では夏になれば何度となく給水を制限しないと回らないこともあったものだ。 もちろんダム建設のためには大きな犠牲を伴うことは必至である。そのためにこの問題は半世紀を越えてしまったのだ。

そして時代は移り変わった。そのときに悩み苦しんでいたことも大きな流れの中であきらめ、自分を説得し、心の整理がつくことも多い。そして意地になるだけではない、大きな意味で他の人の利益(利他)になることであれば、自分たちの生活の一部が犠牲になることも致し方ないと思えることもある。 それが人間の素直な心だ。

八ッ場ダム建設問題は、ニュースで何度も報道されているが、昨日、今日に始まったことではないのだ。 何十年の歴史の中で住民が嘆き、悲しみ、悩み抜き、その結果、政府の事業に同意するという結論に至ったものだ。

それを民主党の責任大臣は、住民が頼んでもいないことをマニュフェストに掲げたからといって、地域住民や行政の長の思いを聞かず、「ダム建設は中止する」とお題目を唱え続けている。

最近、各局でもこの問題をニュースに取り上げることが多くなったが、はっきりと分かる形で民主政権よりの左翼系マスコミ(テレビA)は、反対派住人の声を黙殺しようとしている。一見、公平に住民側の意見を取り扱っているように見せながらもそのコメントは冷淡そのものだ。ダム建設中止見直しを検討の視野に入れたテーブルにはつかない前原大臣に対して、住民の代表が向けた「頑なな人だ」という言葉を、朝早くから電話取材に応えてくれた地元住民に対してそっくりそのままテレビAの司会者Sが「住民の方も頑なになってますね~。」といってのけたのだ。頑なではなく、陳情をしているのだ、その人は。

自分たちのメディアの取材に対して真摯に受け答えしてくれた一般市民に対して、自分たちの耐えてきた苦しみを吐露しただけの住人に対して「頑な」という一言で締めくくり、相手の電話を切ってしまったのだ。住人の方もなんだかわけの分からないコメントになってしまい「お役に立てずにすみません」と力なくいった。一体A局は何を考えているのだ、一住民に心苦しいを思いをさせて、自分たちの支援する政治団体の片棒を担ぎたいのか。弱い力を持たない、政治に翻弄されやすい住民の声なき声を吸い上げ、正しい世論形成や、政治に反映されるように導くのがマスコミの仕事ではないのか。

最近、テレビAの一貫して流れている政治的背景にマスコミによる統治支配を感じる。あまりにも露骨に、野に下った自民党議員をコケにした発言を繰り返す文化人と称すやからを抱えて自由に発言させているからだ。もちろん、報道番組の司会者やゲストによっても違いはあるが、しかし、文化人気取りの漫画家や芸能ネタで食っている司会者がにわかにこの問題を取り上げ、民主がなぜ、この八ッ場ダムを保有する地域で立候補者を立てなかったのか、いや立てられなかったのか、その意図すら見抜けない民主を擁護する発言を続けているのはまったくもって聞くに堪えないものだ。

マスコミはこの民主党の政治的意図、選挙戦略を見破らなくてはならない。「数にもならない八ッ場ダム周辺の住民には、民主を選ばない権利さえ与えられなかった。」このことを国民はもっと真摯に受け止めるべきだろう。

今後もマスコミ報道のあり方と八ッ場ダムの行く末を見守りたい。

2 件のコメント:

  1. nec scire fas est omnia. 人はすべての事を知るを許されず。

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  2. 記事を読ませてもらいました。住民の方の想いや苦悩や立場をきちんと考えられていない事に気づき、とてもはっととさせられました。

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