2014年1月8日水曜日

東京都知事選にみる政治の困惑

お正月明け早々に、東京では都知事選が始まろうとしています。
今年はさらなるスピードアップが求められる年になりそうです。

その前に、保守言論人として若くしてご活躍されていた拓殖大学の遠藤浩一教授が他界されましたことを心よりのお悔みを申し上げます。


また、くしくも1月3日にミスター大阪と敬意をもって称されたやしきたかじんさんもお亡くなりになられたとのこと、こちらも東京のマスコミでも大々的に取り上げられていますが、生前の人望のたまものと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。


さて、そうした話題に事欠かないマスコミ世論ではありますが、東京ではにわかに猪瀬直樹氏後任の都知事選に向けて、各党の熱戦が繰り広げられようとしています、のはずですが・・・。

いえいえ、これがなんとも政治の世界の摩訶不思議さ。
民主党も自民党も同じ穴のムジナとでもいうのでしょうか。結局は無難なところで舛添候補を両党とも推すよう、党内調整を初めているようです。

まあ、もともと自民党出身の政治家ではあったわけですが、その辞め方の問題でいまだに快く思えない議員がいるというのは当然のことでしょう。

そして、民主党ですが、こちらは実質、舛添氏の政治思想に近かったのでしょう。秘密保護法案に舛添氏が反対を表明したことを買って、今回の都知事選に升添氏を推すのだとか。


生前、故遠藤浩一教授は、民主、自民両党とも付き合いを深め、二大政党制を要望し、民主党にたいしても保守路線の方向性を示唆していたようですが、実際のところ、保守路線で共闘することなく、左派路線で落としどころをみつけたという感じが今回の都知事選では否めません。

まだ決定ではないようですが、結局は民主はもちろんのこと、自民にも首相をさておき左派勢力が大きいということが露呈されたように思います。

本来なら、安倍さん個人が都知事選を誰を応援したいかといえば、言うまでもなく、田母神氏でしょう。麻生総理時代に更迭された幕僚長ではありますが、安倍さんとは懇意の仲。田母神さんを励ます会にも出席して、その行く末を案じておられた政治家、言論人の代表が安倍総理自身に他なりません。


そうした経緯を振り返ってみても実に日本の政治とは異なもの。
現職の総理大臣が自分自身の考え(保守路線)を、本来保守政党であるはずの自民党の代表であるにも関わらず、表明することができないのですから。
何とも日本の本音と建て前の落差に愕然とする思いです。

そんな日本固有の自虐史観を背負った政治状況下で、育まれたともいえる左派勢力と本音と建て前を使い分ける政治家群。こんな曖昧にして、矛盾だらけの政治理念なき国家がこのまま世界のリーダーとなりえるとは到底私には、思えません。

たとえば日米同盟の亀裂や、国際的な信用問題、国内の政治の問題など、今以上にほころびが生じるかもしれません。

また、現象的に表れるのが遅い場合でも、安倍総理の後に続く、保守政治家が現状、育っているとは思えない状況で、安倍さんが順調に2期目を務め終えたとしても、そのあとはどうなるのでしょうか?
 


平たく問題点を挙げるとすれば、一つの国民病でもある「自虐史観」が政治家の、そして日本人のもっとも心を暗くしている、事案だと思います。日本の政治的方向性は、この自虐史観を払しょくしないい限り、決して状況が改善されるとは、未来は明るいとは思えないのです。

都知事選に見る政治的混乱、またしても日本政治の危うさを突き付けられた思いです。

結果はまだわかりませんが、民主、自民両党の推す舛添氏の出来レースになることは避けたいと思います。ほかにも目を転じれば、有望な方々、ドクター中松や、田母神元幕僚長がいるのですから。

さらに一点だけ物申すとすれば、今回もまた元外交官の吉田重信氏が出馬されるようですが、「都民からの尖閣諸島への募金は、国際親善に使わせてもらえるよう訴える」と発言されているようです。これは、たまったものではありません。

この方は中国問題に関する研究所をお持ちで、日本人とは思えない中韓よりの発言をされている方ですが、日本国の利益を守るために一人ひとりが善意で募金したお金がわけのわからない国際親善という美名のもとに消えてしまうのであれば、いったい、自分たちの行為はなんだったのか、と
その思いがまったく報われないことになってしまいます。

こうした人物にも要注意です。
他にも一人ひとりに対して書きたいことはありますが、今日はもうこの辺で。

国政とは一線を画しているとはいえ、首都東京の都知事はどこの都知事よりもその任務は重いはず。ぜひ、その方の深い部分の思想、政治理念を知ったうえで一票を投じてたいものと思います。

あっ、ドクター中松さんは、もこれが最後の出馬となる可能性が高いですね。政治家としての資質はわかりませんが、頭はまだまだシャープです。最後の大穴になるのもまた一興か。

 




2014年1月3日金曜日

ようやく三が日を迎えて、明治神宮で御祈願を。

昨年の暮れから休みに入った安堵感からか、やや風邪気味で体調を崩しておりました。

元旦の1日、2日と参拝に行きたい場所がいくつかあったのですが、案の定寝正月で2日間すごし、
ようやく重い腰をあげて(といっても寝正月に飽きていたので)三が日の参拝に今日は向かうことができました。


とはいってももう午後の3時を回って、出かけたい場所がいくつかあったものの、まずは、昨年、
新年の参拝に出向けず後悔しておりました明治神宮へ。

原宿は東京に出てきてからというもの縁のある場所(ターミナル駅)ということもあって、明治神宮
へは、ふらりと散歩がてらの参拝に出かけることも何度かありました。

ただ実際に元旦に行くとなると大変な混雑でまず、初日はよほど根気強くなければあきらめた方
が良い場所です。

ということもあって今日は、通常の神殿が閉まる30分前にすべりこめれば何度かなるだろう、と
いう安直な思いで、出かけたら、参道を軽快に歩いたのもつかの間、行き止まりとなりました。

ものすごい人、ひとです。3日目にして。


1時間も並んでいた頃、ようやく社殿のあるお社が見えてきました。
遥か遠くに(実際の物理的距離よりも)見える鳥居と社殿があれほど頼もしく見えたことはありませんでした。

ここで思ったのは、やはり神仏への道は遠くにあって、物理的距離を縮める行動を起こしていく
からこそ、値打ちのあるものなのだということ。ちょっとこれしきのことで大げさではありますが、
正直、参拝するまでに何時間がかかるのだろうかと思ったとき、やはりちょっとした試のようなものを感じました。

安易にまっすぐ自分の道を邪魔するものなくいけることは楽なのですが、いつ、あそこにたどり着けるのだろうと思うと、感謝の念がいっそう湧いてくるものなのですね。

そんな日頃は感じられないことも感じ取りながら、いろいろと今年の抱負に思いを寄せて無事、1時間半待ちで、社殿前に到着です。

ここで簡単な参拝だけで済ませるのはもったいないと、思ったことは当然の成り行きといえるのかもしれません。


本殿に一歩でも近づきたく、また、新年の願を全託したく「心願成就」を受けることにいたしました。

名前や住所、祈願名などをかきいれると、とても丁寧な対応をいただき、順を追った流れのなかで御祈願いただくことができました。

最期は、神楽の奉納もあり、祈祷御守護とともに、お神酒や御神米などが入った神饌をいただいて帰りました。


神聖な本殿で、新年の願いごと、そして祈りを捧げられたことは有難く、より一層心願成就に向けて思いを新たにいたしました。

後で振り替えれば、悲喜こもごもさまざまな学びあるストーリーが用意されているかもしれませんが、今年は何と言っても干支の「午年」。
こういう時にこそ、火事場の馬鹿力(?)を発揮しない手はないかもしれません。

ようやく迎えた新年、まだ始まったばかりですが、皆さまには、今後ともご指導、ご鞭撻いただきたく何卒、よろしくお願い申し上げます。そして、お世話になります。

あっ、頂いたお神酒がおいしくて、これもまた神さま、目に見えないご存在のお蔭でしょうか(^_^;)




2013年12月31日火曜日

2013年の暮れに。

2013年もあと残りわずかとなりました。

そんななか、今日は茨城で少し大きめの地震が発生しました。
来年を占ううえでもこの時期にと思うと、「来年も震災に気をつけよ」、「心引き締めよ」という天からのメッセージのように思えなくもありません。

とはいえ、人生の艱難辛苦も震災も起こる時には起こるものなので、どっしりと構えて、日頃から心残りのない生き方をしたいものだと思います。

さて、今年一年を振り返るにはあまり時間がありません。

今日は、師走の忙しさを実感する間もなく、温かな日和を続いた折り、一つの悲報が入りました。
昭和生まれの音楽ファンならぴんと来られたことと思いますが、数々の名曲を生み出された
ミュージシャン大滝詠一さんの死去です。

自宅でくつろいでおられるとき起きた突然の死だったそうですが、驚きと同時に、私はある方のことを思い起こしました。

1999年1月に50歳の若さで他界した作家の景山民夫さんです。
景山さんは比較的私の自宅からも近い成城で住んでおられて、趣味のプラモデル作りに熱中していた際に発生した火災で亡くなれたそうですが、景山さんが生きておられたらちょうど、今年65歳。大滝詠一さんと同い年です。

なにか偶然とは思えない巡りあわせのようなものも感じるのですが、家族に別れの挨拶を言う間もなく訪れた突然の死。才能のある作家やミュージシャンらしい最期のような気もいたします。

いま、実際にどんな状態であれ、生きながらえるリスクを抱えているひとの本当は多いのではないかと思うのです。

それが事故死であったとしても、ある意味、長らえることなく、数十分か数時間ほどの苦しみで旅立てるのならば、それは考えようでラッキーと呼べるのかもしれません。ほんの少しだけ身辺整理と、家族にお別れをいう時間があればなお、よかったのかもしれませんが・・・。

そんな私にとっても身近に感じていたひと(景山民夫さん)を思いだし、10代の頃から大好きだったミュージシャン大滝詠一さんの冥福を祈りつつ、今年は、高齢の親のこと、自分に残された時間のことなど、いろいろと思いは廻ります。


さて、皆さんは来年はどんな年にしたいですか?

2013年、私は、自分の新しい一面も発見したような、自分の思いに気づかされるようなことの多い1年ではありました。よくも悪くもこれが始まりだったといえる1年になるのかもしれません。

来年は、自分自身がよき種となって、出会う人によき感化を与えらる自分になっていきたいと心から願っています。何より、まず自分自身を鼓舞して、新しい自分にチャレンジできるような1年を過ごしていきたいですね。これまで以上の自己変革を目指して。

さあ、ここでは書けない課題は目白押しですが、何もしなくては時間が過ぎ去っていきます。

ここで冷静になって自分自身の人生に必要なスキルや、なりたい自分に目標を置いて、今だけは挑戦的に考え、行動できる自分でありたいと思います。

今年も1年関わって下さった皆さま、ありがとうございました。

そして、何がこの時代に起きたとしてもよい1年をお迎えください。
絶対に自分は幸せになれると信じて。

私自身、この時間の自分も、明日以降の自分も幸せを選びとっていける自分であると、胸を張って生きていきたいと思います。

2014年が皆さまにとって素晴らしい飛躍の1年となりますように。

いつ、どこにいても変わらぬ愛と祈りを込めて。

2013年12月3日火曜日

市川海老蔵さんに、訊け!!

市川海老蔵さんがNHKの番組でインタビューに応えています。

お父さまが亡くなられて来年の2月で丸1年ですが、赤裸々にお父さま《団十郎さん》のことを
テレビで語るのは、初めてではないでしょうか。

私は、代理店で勤めていた自分に約8年前ですが、彼に一度インタビューでお会いしたこと
があります。

別に歌舞伎好きなインタビュアーを立てて、2時間あまりいろいろと話を伺い、撮影をさせて
いただきました。
http://ameblo.jp/ebizo-ichikawa/

周囲の海老蔵さんの評判はかなり良かったのですが、中でも制作者の間では、「目がきれいだ」、
「こんな目のきれいなひとはなかなかいないよ」という言葉が写真の感想として伝わってきました。

私自身、インタビューの間と、その後の撮影とでお話しを伺っていて、彼のピュアなこころに十分
打たれていました。言葉の端々に純粋さが感じられて、一言でいえばすれてないのです。

例えば、ご自分が江戸時代から牽引する、歌舞伎役者の家柄になぜ、生まれてきたか。

「なぜ、僕はこの家に生まれたのか。ずっと考え続けてきたよ、子どもの時から。」

「僕がこの家に生まれたのは本当にラッキー。おそらく、もっとたくさんの人が市川家に生まれたがっていたでしょう。でもその中でも天国からこの地上を眺めながら、俺があの家に生まれるんだってね、周りをはねのけて生まれてきたんだと思うよ。」と、あの涼しげな眼で少しほほ笑んで語ってくれました。

「歌舞伎役者として生きることが僕の使命なんでしょう。で、なければこんな家柄に生まれることは
絶対にない」と。

世の中には宗教を勉強したり、転生輪廻を信じている人はいるものの、こうして、自分の生まれてきた意味を考え続けて、自分なりの答えをだしきった人に、若者にあったことはないと思いました。

そんな海老蔵さんも立派な奥様を迎えられて今では、二児の父です。
いろいろあったものの、海老蔵さん主演の「千利休にたずねよ」が公開される運びとなり、くしくも
お父さまとの最後の共演映画となりました。
http://www.rikyu-movie.jp/

そんな中、本日のインタビューは非常に海老蔵さんのお父さま団十郎さんに対する思い、そして、
さらに以前お目にかかった時よりも、ご自分の使命をご自覚されている想いがひしと伝わるもの
でした。

これからが本番で、日本の伝統芸能「歌舞伎」をしょって立つひとですが、それだけでなく、芸能の道を極めながら、ご自身の生まれた理由をそこに見出した海老蔵さんのピュアな感性に、これから多くの方が触れられる機会があればと思います。

真実をこの世において知ることは難しい。
されど、あれだけ歌舞伎という大きなテーマ、職業を通して”己を知った”海老蔵さんは、ほんとうに現代に生きる天使のひとりかと思います。

これからがほんとうに楽しみな役者であり、一人の人間として興味深く見させてもらっています。
あの生き方、言葉に触れたら、私自身もほんとうの自分を探さずにはいられなくなる。

海老蔵さん、ありがとう。
ホンマ、惚れてまうがな。

追記:当時の写真(フィルム)が掘り起しできず、本日は写真なしでアップ、恐縮です(~_~;)
私の写真家人生にとっては海老蔵さんと出会えたことはひとつの宝もの、よき思い出です。

2013年10月16日水曜日

再登板した安倍政権自民党よ、いったいどこへ向かうのか。

2013年10月15日。昨日から久々に開催された第185回臨時国会。
ながーい国会議員の皆さまの夏休みを経てようやく開催の運びとなりました。



ねじれを解消しての本国会は、どこか政治家の先生方も(あきらめるべきところはあきらめたせいか)、皆晴れやかで、威勢のよい掛け声も「よっ!」「そうだー!」(拍手―!!!)と、まるでお正月がやってきたみたいにノリノリ♪

それはそれで、脱民主政権後の我々国民は、すっきりとした心持ちで いいんですけどね。

にしても、総理の所信表明も、「消費税8パーセント増税をきめた」後だけに、「成長戦略の実行」「アベノミクスの徹底」に終始徹底していました。

そんな中、懸念されていたことが現実味を帯びて・・・、安倍さんが官僚にさらに取り込まれていっているのではないか、もっといえば、官僚主義の自民党実力者議員に歩みよっていっているでのはないか、ということです。


今日もっとも残念だったことは、あの石原前都知事の棺桶一歩手前のほぼ最後のお訴えを(質疑)をまったく無視されたことです。

もちろん質問にはきっちり回答をされました(お役人の原稿をそのまんまの読み上げでした)。今日ほど、安倍さんがロボコップに見えた日はありませんでした(涙)。

とにかく残念というよりほかないのですが、あれだけ老齢の、政治家人生残りわずかな石原さんが、言論人としての「最後のご奉公」に打ってでてるのに、あれはないですよな。
(※以下、いつもの体言止めで語ります)
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/ghq.html

要は、GHQ占領下での「日本国憲法を破棄しろ」と求めたくだりである。
あっ、そんなストレートなものいいではなかったですけど、それができるのは、「現役の総理だけである」、ともっとも安倍さんに対して期待を込めて発した直談判だ。

そう、冒頭、石原さんは、かの尊敬する三島由紀夫氏の比喩をだして、今、何が日本に大切か、日本人の政治を預かるものの、精神に魂に、何が必要であるかを指し示したのだ。

総理の答え方によっては、この国の根本を変えることになった重要な質問。
(その後の尖閣問題・有人化など、国を守る国民の実態にも触れて)


もう少し考える余地を残す発言であったならば、石原さんのみならず、中韓に国際的な激しいゆさぶりを受けている日本国民全員に対して福音ともなったものを、「60有余年たった今、日本国憲法は有効である」として、その一言でもってして、すがる腕を振りのけたのだ。

これは総理にとっても後に大きな禍根を残すことになるのではないかと、ようやく返り咲いた安倍政権にたいして危惧するものである。

あれだけ朝日や毎日のバッシングを受けて、いわれなき非難を受けた後に、その人柄と保守の心を請われて、国民の期待を受けて帰り咲いただけに、安倍さんの本心にかけて、これはひとこと、申し上げたいと思ったのである。


私は、安倍さんには心から「ご苦労様」とねぎらいのお言葉をおかけしたい。

しかし、されど、この10月、消費増税にふみきった過ちと同様に、深く官僚と結び付いた麻生さんを始めとする自民党中枢幹部にネゴる必要はないのではないか、ということをお伝えしたいのだ。

安倍総理は、安倍さんらしく、国民の期待を背負って再登板されたわけだから、その国民に対する背信行為をこそ、もっとも恐れるべきことなのではないか、ということだ。

さまざまなやっかみがあるであろう、まだまだ成長戦略も本物にはなっていないだろう。しかし、もうかつてのように、改憲派の安倍総理を目の仇のようにしてバッシングしていた朝日主幹はここにはいないのだ。だからこそ、「最後の敵は己自身である」と腹をくくっていただきたいのである。

そしてどうか、次に機会がもしも訪れたならば、大先輩である石原慎太郎議員の手を、払いのけるようなそうしたことはしていただきたくない。誠意ある言葉を投げかけていただきたいのである。

いまだからこそ、野党であっても進言してくださる最後の長老(保守政治家)であるのだから。
http://www.sensenfukoku.net/
 https://twitter.com/i_shintaro

最後に、三島由紀夫氏が海外特派員相手に英語で講演する希少な音声(youtube)を発見しましたので、リンクを張っておきます。
三島は、フランス語も話せたそうですが、時にユーモアをまじえ、あの当時でどうやってこれだけの英語力を身に着けたのかと、驚くばかりです。稀代の天才作家は、どこか違う宇宙空間からやってきて、国際人となる日本人に戦後の生き方を問いかけたのかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=JwGNfZqfiao

2013年9月8日日曜日

2020東京オリンピック招致おめでとうございます!

いやー、ついにやっちゃいましたね。
昨日はさすがに眠れませんでした。

2016年のオリンピック招致から次の2020年こそが東京の年、と思い続けて早2年、決選投票を迎えてのこと。 
ほんとうに今回のことは、原点に遡って、石原前都知事に感謝申し上げたいです(涙)。

この方が原点であり、東京都が、そして今の猪瀬知事が引継、安倍首相になり、大いに盛り上げてくださった。ほんとうに「勝つべくして勝った!」オリンピック招致だったと思うのです。






これから7年間、きっとあっという間だと思いますが、
その頃中堅から、熟年になりつつある私たち世代にも大いにやることが一杯あると思います。

今から考えられるインフラ整備に、観光、秋葉系アニメ、原宿ファッション、サブカルチャー、飲食、日本の伝統工芸品、音楽、アドバタイジング、不動産などの経済波及効果を考えれば、もう際限なく広がって、全国規模でみれば150兆円効果とも言われています。
(大和証券シニアストラテジスト木野内栄治氏の試算より)

まあ、しょぼい経済アナリストの森なんちゃらさんなどは、3兆円やら4兆円など足もとレベルの話しかしていませんが、いや、これはもっと凄いことなんです、われわれの意識次第で。

だから、今から自分には何ができるか、「この歳だから」とあきらめずにポジティブに考え続けて、、
行動していくことを躊躇してはいけないな、と思います。


そして、日本的なるもの=『ジャパニズム』のかつてない規模で脚光を浴びる時期。
日本の産業で伸び悩みを感じていたもの
(かつての升とか、日本では使われなくなったものが外国人からみたら超クールってことで、海外ブランドのギフトボックスとして使われるようになりました)見直され、脚光を浴びる最大のチャンスでもあります。


目に見えないサービス、「おもてなし文化」も具体化していけば商機がもっともっとあるのだと思います。それは、東京だけにとどまらず、地方への観光誘致も成功するよう日本全域の交通インフラの整備も検討していくべき時期ではないでしょうか。


また、外国人の日本への移住を考えるチャンスにもなればいいですね。
法整備もその頃にはもっと進んで、規制緩和とともに、「よき日本人」を育てるカルチャーも東京を中心に日本全体で育てていきたいですね。

東京に住む人間、企業にとってのビッグチャンスですが、地方から見ても何かウリがあれば、東京進出、そして地方への外国人誘致は多いにチャンスあると思います。



特に私は、交通インフラのほか、デザイン、映像、音楽などアート、クリエイティブに関わる分野にも大きな特需があると思います。特需だけではなく、きっとオリンピックイヤーならではの芸術産業が生まれていくことでしょう。

ブエノスアイレスでのプレゼンテーション映像を見ても、日本の映像は格段に、トルコよりも進んでいる感じがしました。映像のスピード感、盛り込まれる情報量が圧倒的に違うのです。
日本は、いつの間にか映像大国でもあったのですね。



まだまだな私ですが、これから何かビジネスの種を見つけて、取り組んでいきたいと思っています。もしかしたら思わぬところにその種は転がっているかもしれません。業界を問わず、きっといたる所にその芽はありますね。

7年後はもうすぐ。
未来には夢がある」「希望がある」と信じるところから、道は開けます。

”明日を信じて” 

2013年9月5日木曜日

今、ここに記しておこう。ある伝道師との出会い(Part1)

私と幸福の科学の出会い。

それは、現在、キリスト教の伝道師となった小澤利夫さんによってもたらされたものである。

20数年前の幸福の科学の理事長を務めた方でもあり、現幸福の科学総裁によって、
草創期にたったひとり「野に下って伝道するように」との特命を与えられた人物だ。

それまで新興宗教と関わり合うことなく生きてきた私だが、強烈な姉の愛と導きによって、
私は小澤さんと出会うことになった。
1987年の3月23日だったと記憶している。

当時、私は、20歳。18歳から自由奔放に田舎から東京に出て美大浪人を続けていた。

ただこの年にかねてから、経営状態が悪化していた父の事業が不渡りを出して倒産。
父と母は離婚、実家は競売にかけられ、もはや帰るところを失っていた。
2度の浪人の失敗に、実家の倒産、そして物心ついてから私を悩まし続けてきた性同一性障害。
もうこれ以上ないくらい、破滅的な人生を送るかもしれない矢先だった。

私を霊的世界に誘い、救ってくれたのは他でもない、私を支え続けくれた姉であり、
赤の他人でありながらいち早く宗教的覚醒を得た、人生の大先輩である小澤利夫さんだったのだ。

当時、小澤さんの眉間には大きなほくろがあり、時々、目を伏せて見えない何かを察知するかの
ようなしぐさで相手の話を聞いていたのが特徴的だった。彼は、若い頃から真実の宗教を求めて
放浪、日本に仏陀が再誕されるという仏教末期の教えを
信じて、今日まで本物の師を求め続けてきたという。

あるとき、第3の眼と言われるチャクラから、「霊眼が開いた」のだそうだ。

「あなたの20年間の人生をスクリーンで見てくるように昨日見てきたよ」
「苦労のための苦労ではないんだよ。親が子どもをよい子だよい子だと言い続ければ、子どもは
よい子に育つ。でも親がおまえは悪い子だ、悪い子だと言って育てたら、子どもは悪い子に育つ
よね」といった。

この日、いろいろな言葉を投げかけられたが、それは光のシャワーのようなものだったのかもしれない。たった一生の内、
一度訪れるかどうかの「貴人との出会い」によって私の人生は前後裁断されたのだ。

「あなたはこの方の本を読めばわかるよ。我々には使命があるんだからね。」と。

その後、一冊、自ら本屋で「日蓮の霊言」を見つけ、それ以降は、隔週くらいで発刊される高級霊
と言われる方の霊言集、そして「太陽の法」などの理論書を夢中になって読みふけっていった。

私の人生は、まるで眼には見えない決壊が破れ、魂が大きく揺さぶられ、もう元の自分に戻ることはできないくらいに、大きな魂の変化が起きていた。

その後も本を読み続け、友人知人を小澤さんに紹介(伝道)し、若輩者の身で「畏れ多いこと」
と、幸福の科学の会員になるには、10年位かけて社会貢献ができる自分になったら胸を張って
会員にならせていただこう、と心に誓っていた。

思いのほか、その日は早くやってきた。22歳 の夏、いてもたってもいられず、当時は試験制度があったため入会願書に読書感想文と、「何のために会員になるのか」、を書いて提出。
ほどなくして二重◎付で「大川」と直筆サインの入った試験用紙と、合格証が届いた。

その大切な記念品のようなものさえ、今はどこにあるのか、おそらく数度の引っ越しで
紛失したと思わるが、もっと大切にとっておけば、今もう少し違った人生になったのかもしれない。


その時から、25年の歳月が流れた。
長いようで短かった、青年期の20代前半~40代後半までのこの時間。
何ひとつ後悔がないと言えば、嘘である。

宗教的真理に出会い、ある種の覚醒が起き、ビギナーズラックのようなことが立て続けに起きた
のは、最初の3年間だ。

それ以降は、やはり、伝道しようと、押し広げようとすると友人や、職場での人間関係に
亀裂は入った。なにより、自分自身が未熟だった。何も「良い教え」を知ったからといって、
それを即座に
人生に使いこなせるほど、簡単なことではないのだ。

それでも周囲に家族を始め、「仏法真理」と呼ばれる幸福の科学の教えが広がっていくと
家族間の人間関係はもちろんのこと、一人ひとりの人生も大きく変わり始めた。

そして今、70代半ばになる母は 、毎回、幸福実現党の選挙になるたびに、全力で応援し、
わが身を顧みることなく選挙を駆け抜けた後は、原因不明の病に侵され、吐血を繰り返し、
足はこむら返りを何度も繰り返す。

それだけボランティアに、伝道に残りの人生を、お返しの人生として命をかけているのだ。

私としては、母の誠意ある思いに心打たれながらも、「何もそこまでやらなくても」と、田舎
に帰る度に、母の姿を見ておもったりもするものだ。

そんな信者として真面目な母の想いもあってか、こどもの時、幼稚園がミッションスクール
だったのが影響してか、信仰をベースに生きる指針としてきた私の人生だが、そんな私も
40代の後半に入り、人生の転換期を迎えているように思う。

永遠の求道者にして、伝道師・小澤利夫さんについて、書きたかったのだが、本題に入る
前の序文が長くなってしまったので、残念ながら今日はここまで。

今後は、私と幸福の科学とを運命的に繋ぎ合わせた小澤利夫さんのこと、そして、大川総裁
との少なからずある思い出についても折に触れて、書き記しておきたいと思う。

とにかく、25年前に一つの人生の始まりがあったということを記して。

ここまで読んで下さった皆さま、ありがとうございます。

また、お会いしましょう。